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こうしんじんじゃ

庚申神社のお参りの記録(1回目)
埼玉県大宮駅

投稿日:2025年10月27日(月) 08時12分39秒
参拝:2025年10月吉日
大宮駅徒歩10分ほど⛩️🙏🚶

庚申信仰について

庚申倉仰とは、もともと教祖もなければ経典・教義等もない信仰で道教の一つでありその大元は中国東晋時代の古書「抱朴子」に記されている「三戸(さんし)説」によるという。

「三戸」とは人の体内に住む三匹の虫で、頭には「上戸」影候子(ほうこうし)・腸内に「中戸」常子(ほうじょうし)・下半身に「下戸」命児子(めいこし)がそれぞれ潜んでいるとされる。

抱朴子によれば、「人の体内に潜む三戸には形はないが、実は鬼神や霊魂の類であるという。
人が死ぬと三戸は体外に出て好きなことができるので、常に人が早く死ぬのを望み、庚申の夜、人が眠りにつくと体から抜け出し天に上がり人の罪過を天帝(死命神ともいう)に告げる」という。
天帝は庚申の日には門戸を開いて鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すがその最たるものが寿命の伸縮であるという。

人間誰しも過ちはあることでそれを六十日ごとに報告されて寿命が左右されるのは困ることで、その為康中の夜、三戸の虫が体内から出られないように徹夜で過ごすと説くのが庚申仰の骨子であり特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な行為でこれを「守庚申」といった。

この守庚申が日本へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが不明である。

しかし平安時代に宮中で守康申が行われていたのは確からしくこれを「庚申の御遊」と言っていた。
承和元年には天皇出御のもと待臣に酒を振舞い囲碁などして遊んだとあり、その後の公家の日記等から見て九世紀末から十世紀ころには庚申の御游は恒常化していてらしい。

人々は管路を奏でたり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、酒を飲んだりして夜を過ごし本来の守康申と異なり遊興的なものに変わっていったようである。
この康中の御遊という形で夜を過ごし長寿を願う守申の風習は時代が下がると武士階級に広がり、織田長が申待と称し酒宴乱舞の宴を持ったと、との記録もありこれを「申待」といった。この康申印が庶民にひろがったのは十六世紀ころと言われている。

庶民の庚申待には礼拝対象となる神仏が登場してくる。

始めのころは阿弥陀仏などであったが、江戸時代に入ると仏教系では青面金剛が単油の主尊となり、神道系では猿田彦へと収斂していったという。

いずれにしても康申待は神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので三戸説など影も形もないほど変貌している。
ようするに庶民の庚申待とは神祀り・先祖祀りが申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。

庚申講の日人々は身を浄め庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱え、その合間に酒を飲んだり話をしたりして過ごし、鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝に入ったという。

古くから鶏が鳴くと夜のあいだ跳染していた悪霊・邪鬼が退散するといわれ、これが庚申尊掛け軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁である。

庚申待が行われていた事を証明するものに「庚申塔」と呼ばれる石碑がある、庚申などを刻んだ文字碑・猿田彦を彫り込んだ石碑
で東日本に多いという。

庚申塔とは、康申縁起に「一座と申すは三年に十八度なり。両三年には供養いたすべし。
供養とは道野辺に塚をつき四方正面の蘇東波を立てて供物をととのえ、・・・・・」とあるように、三年十八度の申待を続けた記念に立てたもの、康申年を記念したもの、特に申のご縁年として祝われた七康申年を記念したもの、申構内にめでたいことが起きた記念に立てたものなど種々あるという。

庚申仰で礼拝対象となっているのは、仏教系では「青面金剛」神道系では「猿田彦」というのが大方である。
猿田彦とは記紀神話で天孫理理杵尊(ににぎのみこと)の降臨に際し道案内として現れた国津神である。
その猿田彦を中尊とするわけは猿田彦の「猿」
が庚申の「申」に通じることもあり、また猿田彦が理理杵の露払いをしたことから、禍を払う力があると考えられたためとも、太田神とも呼ばれる猿田彦が田の神・豊穣の神とされ、豊作豊穣の願いを叶えてくれる神と考えられていたともいわれる。

ウエブサイトより抜粋
庚申神社(埼玉県)
庚申神社由来記
本宮 猿田彦神社 三重県伊勢市
祭神 猿田彦大神

富社は、天孫降臨の際道案内をしたと、記紀に記されている田彦の尊を祀り、みちひらきの神、幸運の神、商売繁盛の神、豊穣の神として祀られ、その起源は寛永五年(一七九三年)の庚申塔として記録されております。

明治の初めころ、祠が建てられ現在の大宮駅構内の一隅に設置されました。
その後、桐は国鉄の拡張工事のたびに構内各所に移転させられていましたが、元、祠のあった付近で鉄道事故が多発したことから、明治三十年(一九〇四年)国鉄職員と地元有志によって、現在地の北、約二〇〇メートルの位置(現在の金塚公園一帯)に社を建立、安置されました。
この頃より社は近隣の人々の深い敬神を集めるようになりました。

大正一〇年(一九二一年)社の老化が進んだため、国鉄各業務機関の長をはじめ、その職員と地元有志の尽力によって、本殿・拝殿・神楽殿からなる荘厳な神社を建立、緑豊かな神木にかこまれ地元者により守護されてきました。
しかし、昭和五〇年代営社を含む街区に産業文化センターが建設されることになり、富社は埼玉県と大宮市の保証および地元有志の浄財をもって、昭和六〇年七月(一九八五年)現在地に遷座建立されたものです。
これを機に、富社は桜木町の氏神さとして永久安置の願いを込めて、宗教法人庚申神社となり今日に至っております。

平成二八年一月吉日
庚申神社(埼玉県)
庚申神社(埼玉県)
手水舎
庚申神社(埼玉県)
社額
庚申神社(埼玉県)
拝殿
庚申神社(埼玉県)
パワースポットについて

摩訶不思議なパワースポットは、絵馬に願いを書き込むと共に悩み事に関しては、中心にあります御座石に悩み事を念じて手をかざしますと、悩み事が吸い取られ地中深く閉じ込める事が出来ると言われております。
又、願い事に関して神社本殿にて、二礼二拍手一礼のお参りをして頂く事により道が開ける事となります。
本来、道開きの神様である、中神社ならではのパワースポットを是非お試しください。

すてき

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