むくじんじゃ
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御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | |||
駐車場 | あり |
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先週の雪が残る中でしたが、椋神社にお参りをしてきました。
雪の残る拝殿
車も通ることのできる鳥居
参道(階段)側の鳥居と神犬
旧社務所と龍勢(ロケット)の見本、雪で近くまで寄れなかったです
拝殿
鯉の滝登り?の彫刻
柱の模様も素敵です
末社(白鳥神社、菅原神社、稲荷神社)
末社(神明神社、琴平神社、諏訪神社)
八幡神社旧本殿
両神神社 奥にちょっと見える両神山
椋神社(むく~)(吉田)は、埼玉県秩父市吉田にある神社。旧社格は県社。平安中期927年の延喜式神名帳に「武蔵国秩父郡 椋神社」の論社5社の一つ。明治初期に5社で論争が起こり、知事の裁定により5社を合わせて式内社とした。
当社の例大祭に合わせて行われる「龍勢(りゅうせい)祭り」は、古来農民による手作りロケットの打上げ大会で、メディアにもよく取り上げられ人気がある。2011年にテレビ化されたアニメ『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』では重要な要素として出てくる。
創建は不詳で、江戸中期の卜部兼敏『椋五所大明神由来』によると、日本武尊が当地赤柴にて道に迷うと、鉾の先から光が走り、大きな椋木が立ち、猿田彦大神が現れたため、鉾を神体として祀ったのが当社の始まりとしている。1569年の武田勢の侵入により社殿焼失、その後1575年に鉢形城主・北条氏邦が現在地に社殿を再建。江戸期の1627年に改修。
当社は、秩父鉄道・秩父駅の北西7kmの県道37号線沿いにある。境内は広く、社殿を含め多くの建物が古く、時間が止まったような印象。社務所には神職の方がいて御朱印・授与品を拝受できる。
参拝時は平日の午後で、自分以外に参拝者はいなかった。個人的印象としては、<椋神社>式内論社5社の中で最も有力ではないかと感じた。
県道近くにある、新しい<大鳥居>。くぐると境内右脇に出る。元の鳥居はくぐって左手。
元の鳥居。後ろ側は谷になっていて、それなりの高低差がある。
非常に気になった、痩せた<狛犬>。個人的見解では、現代の飼い犬が肥満化したせいで、現代の通常の狛犬も肥満化していると思われる。昭和の高度成長期以前の狛犬は、こちらの痩せたシルエットの方がノーマルだったのでは?いずれにせよ古そう。
鳥居をくぐると、遠くに瑞垣に囲われ一段上がった神域が見える。
神域手前右手にある<手水舎>。
拝殿全景。屋根は瓦葺で昭和の改修を感じるが、躯体自体は古そう。
拝殿と扁額。
社殿全景。
拝殿に向かって左側の末社群。中央の大きな社が<菅原神社>、左が<稲荷神社>、右が<白鳥神社>。
拝殿に向かって右側の末社群。左右に大きな社があって、左が<神明神社>、右が<諏訪神社>、中央の小さいのが<琴平神社>。
社殿右側にある、屋根付きの<八幡社>。黒光りした重厚な雰囲気の社殿。
正面の色彩が鮮やかで細かい彫刻。左右・裏側にも彫刻が施されている。
社殿裏の、名もなき末社群。
それなりのサイズがある、朱塗りの<本殿>。
神域入口付近にある、藤原秀郷を祀る祠。藤原秀郷は、10世紀前半の当地を含む武蔵国造(下野国造兼務)で、940年に平将門を討ちとった人物。延喜式神名帳が927年なので、その関係で祀られているのか?
神域を出て右側にある集会所。龍勢祭りの打上げの順番が書かれている。
神域を出て正面(正鳥居の脇)にある<神楽殿>。
神域を出て左側(国道の大鳥居側)に社務所がある。御朱印はこちら。
現在転職活動中で近場の神社しか参拝出来てなかったので、不安な気持ちやモヤモヤを解消するために少し遠出しました。
1Km手前で大きな鳥居と社碑はあったものの、到着まで細々と曲って不安でしたがナビ通り進むと無事に到着しました。本殿が見えて来たら右側へ向かうと大きな鳥居があり、車は止められます。
社務所が3時までなのでヒヤヒヤしましたが、2時過ぎには到着出来て良かったです。
本殿の左手に龍勢ロケットの見本が展示されてます。竹はかなり長くホントに飛ぶのかと思う程です。
アニメ(序盤は見たけど個人的に興味なし)の舞台にもなったそうですがそれを誇示してる雰囲気も無く、静かに参拝出来る神社です。モヤモヤした気分もだいぶ解消されて、気持ちを切替える事が出来たので来た甲斐が有りました。
御朱印は書置きの旨の表示はありましたが、書き入れて下さいました。
ロケットの先端部分。竹までも写したらすごく小さくなります。
歴史
(1)
人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅三年芦田宿禰守孫造立すと云う。多治比直人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。清和天皇貞観十三年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊五代の裔丹治家義五代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。長慶天皇永徳二年累進して從二位を授ける。元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正三年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。慶長九年当社境内欅三十五本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永四年神殿大破修復棟札あり。宝永五子年二月拝殿修復、棟札は左の如し。
夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也縁起に曰景行天皇四十年与 天慶年中子両度鎮座也 云云
上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日
寛政元酉年四月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして弐百有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。
寛政元己酉年
奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、四月二十一日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平
明治十五年六月十五年県社に昇格す。大正二年近隣の神社二十三社を合祀す。大正五年十一月十三日無格社八幡大神社合祀許可せらる。
大正十年拝殿幣殿の改築竣工し十月四日神饌幣帛料供進神社と指定せらる昭和九年天皇陛下より祭祀料を賜わる。昭和十七年九月社務所焼失す。
昭和二十五年十二月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。
昭和三十四年九月、工費百三十万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十年十月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。
昭和四十三年十二月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、四十四年四月元拝殿屋根改造完成す。昭和四十八年九月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木二百十一本柱八本奉納。細木置場を建設す。
昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて調製費二百二十万円を以つて神輿調製奉納す。五十年亦三百万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦四十九年五月二十日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。
(2)
人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇貞観十三年十一月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長五年十二月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功を奏し、五座の神となる。元亀年間武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正三年北條氏邦再建す。明治六年郷社となり、仝十五年六月三十日県社に列せられ、大正十年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和十七年九月三十日社務所焼失し、昭和三十四年九月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和五十年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。龍勢の神事は昭和五十二年三月二十九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成七年
名称 | 椋神社 |
---|---|
読み方 | むくじんじゃ |
通称 | 下吉田椋神社 |
参拝にかかる時間 | 10分 |
参拝料 | なし |
トイレ | あり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 0494-77-1293 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
絵馬 | あり |
SNS |
詳細情報
ご祭神 | 猿田彦命,武甕槌命,経津主命,天児屋根命,比売命 |
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本殿 | 三間社流造 |
文化財 | 龍勢祭り(重要無形民俗文化財) |
ご由緒 | (1) 人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅三年芦田宿禰守孫造立すと云う。多治比直人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。清和天皇貞観十三年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊五代の裔丹治家義五代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。長慶天皇永徳二年累進して從二位を授ける。元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正三年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。慶長九年当社境内欅三十五本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永四年神殿大破修復棟札あり。宝永五子年二月拝殿修復、棟札は左の如し。 夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也縁起に曰景行天皇四十年与 天慶年中子両度鎮座也 云云 上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日 寛政元酉年四月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして弐百有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。 寛政元己酉年 奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、四月二十一日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平 明治十五年六月十五年県社に昇格す。大正二年近隣の神社二十三社を合祀す。大正五年十一月十三日無格社八幡大神社合祀許可せらる。 大正十年拝殿幣殿の改築竣工し十月四日神饌幣帛料供進神社と指定せらる昭和九年天皇陛下より祭祀料を賜わる。昭和十七年九月社務所焼失す。 昭和二十五年十二月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。 昭和三十四年九月、工費百三十万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十年十月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。 昭和四十三年十二月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、四十四年四月元拝殿屋根改造完成す。昭和四十八年九月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木二百十一本柱八本奉納。細木置場を建設す。 昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて調製費二百二十万円を以つて神輿調製奉納す。五十年亦三百万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦四十九年五月二十日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。 (2) 人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇貞観十三年十一月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長五年十二月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功を奏し、五座の神となる。元亀年間武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正三年北條氏邦再建す。明治六年郷社となり、仝十五年六月三十日県社に列せられ、大正十年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和十七年九月三十日社務所焼失し、昭和三十四年九月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和五十年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。龍勢の神事は昭和五十二年三月二十九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成七年 |
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