ちちぶじんじゃ
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秩父神社ではいただけません
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秩父神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年05月23日(日)
参拝:2020年5月吉日
秩父神社は、埼玉県秩父市にある神社。式内社、武蔵国四之宮(加盟>知知夫国一之宮)。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。秩父地方の総鎮守。三峯神社、宝登山神社とともに「秩父三社」の一社。武蔵総社六所宮である大國魂神社(東京都府中市)には武州六大明神の四之宮として祀られ、同社の例大祭「国府祭」(現「くらやみ祭」)では神輿も巡行される。
当社の例祭「秩父夜祭」(12月1日~6日;「六日市」)の屋台行事と神楽は、「山・鉾・屋台行事」(18府県の計33件)の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されている。また日本三大曳山祭(※)の一つで、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。
社伝によると、第10代天皇・崇神天皇の時代(紀元前97年~紀元後30年)に、知々夫彦命が初代知々夫国造として任命され、その祖神・八意思兼命を奉祀したことに始まる。のち允恭天皇年間(412年~453年)に知知夫彦命の九世子孫である知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったといわれる。
平安時代927年の『延喜式神名帳』では「武蔵国・秩父郡 秩父神社 小」と記載された。律令制度の崩壊により、当社を支えた地方豪族の勢力が弱体化し、当社も衰微した。鎌倉時代に落雷により社殿が焼失し、再建する際に、鎮守府将軍・平良文の流れの秩父平氏から信仰されていた妙見菩薩を合祀し、以降、明治時代の神仏分離まで延喜式記載の「秩父神社」ではなく「秩父大宮妙見宮」の名称で繁栄した。
明治時代に入り、近代社格制度で国幣小社に列格、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名を「秩父神社」と改めた。
当社は、秩父鉄道・秩父駅の南西100mの位置にあり、南側の大鳥居までは200m。境内周辺は市街地化されている。境内は樹木は多くないが、旧国幣小社格として十分な広さがある。近隣には秩父まつり会館など関連施設がある。
この日、寺社仏閣巡り用に購入したバイクが納車されたため、慣らし運転のために秩父ツールングに出掛け、秩父エリアの中心神社として当社に参拝した。参拝時は週末の昼前で、コロナ禍の外出自粛の影響なのか、参拝者はちらほら程度だった。
※京都・八坂神社の「祇園祭」、飛騨高山・日枝神社の「高山祭」、埼玉・秩父神社の「秩父夜祭」の3つ。「秩父夜祭」の代わりに、滋賀・長浜八幡宮の「長浜曳山祭」を入れることもある。なお、4つの曳山祭とも、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。
当社の例祭「秩父夜祭」(12月1日~6日;「六日市」)の屋台行事と神楽は、「山・鉾・屋台行事」(18府県の計33件)の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されている。また日本三大曳山祭(※)の一つで、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。
社伝によると、第10代天皇・崇神天皇の時代(紀元前97年~紀元後30年)に、知々夫彦命が初代知々夫国造として任命され、その祖神・八意思兼命を奉祀したことに始まる。のち允恭天皇年間(412年~453年)に知知夫彦命の九世子孫である知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったといわれる。
平安時代927年の『延喜式神名帳』では「武蔵国・秩父郡 秩父神社 小」と記載された。律令制度の崩壊により、当社を支えた地方豪族の勢力が弱体化し、当社も衰微した。鎌倉時代に落雷により社殿が焼失し、再建する際に、鎮守府将軍・平良文の流れの秩父平氏から信仰されていた妙見菩薩を合祀し、以降、明治時代の神仏分離まで延喜式記載の「秩父神社」ではなく「秩父大宮妙見宮」の名称で繁栄した。
明治時代に入り、近代社格制度で国幣小社に列格、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名を「秩父神社」と改めた。
当社は、秩父鉄道・秩父駅の南西100mの位置にあり、南側の大鳥居までは200m。境内周辺は市街地化されている。境内は樹木は多くないが、旧国幣小社格として十分な広さがある。近隣には秩父まつり会館など関連施設がある。
この日、寺社仏閣巡り用に購入したバイクが納車されたため、慣らし運転のために秩父ツールングに出掛け、秩父エリアの中心神社として当社に参拝した。参拝時は週末の昼前で、コロナ禍の外出自粛の影響なのか、参拝者はちらほら程度だった。
※京都・八坂神社の「祇園祭」、飛騨高山・日枝神社の「高山祭」、埼玉・秩父神社の「秩父夜祭」の3つ。「秩父夜祭」の代わりに、滋賀・長浜八幡宮の「長浜曳山祭」を入れることもある。なお、4つの曳山祭とも、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。
境内南側の<鳥居>と<社号標>。交差点にある。
鳥居くぐって左側にある<手水舎>。精密な彫刻がとにかく美しい。柱にも手抜かりなくきれいな文様。
手水舎の後方、少し離れたところにある<神楽殿>。
鳥居くぐって右側にある<神馬舎>。
参道進んで右側、神馬舎の左隣にある<平成殿・社務所>。
参道進んで<神門>。透塀で囲まれた神域は、一段高いところにある。
神門をくぐって、境内全景。参道上には、疫病退散の<茅の輪>が設置されていた。
<社殿>全景。江戸幕府開幕前の1593年に徳川家康の寄進により造営。
拝殿正面。権現造。社殿彫刻の「つなぎの龍」(本殿左側)「子育ての虎」(拝殿正面右側)は左甚五郎の作。
拝殿正面の<扁額>。<知知夫神社>の文字。明治以降の制作。
拝殿正面の右側にある「子育ての虎」の彫刻。江戸時代初期の伝説的彫刻職人・左甚五郎の作と言われる。
代表作としては、日光東照宮の「眠り猫」、三井寺(園城寺)の「閼伽井屋の龍」などがある。
※参拝時、社殿右側は修復工事中で、もう一つの左甚五郎の作品「つなぎの龍」は残念ながら見られなかった。
代表作としては、日光東照宮の「眠り猫」、三井寺(園城寺)の「閼伽井屋の龍」などがある。
※参拝時、社殿右側は修復工事中で、もう一つの左甚五郎の作品「つなぎの龍」は残念ながら見られなかった。
拝殿右側にある<授与所>。御朱印はこちら。
本殿右手にある<皇大神宮>。
本殿背後にある<天神地祇社>。
<天神地祇社>は、全国の一之宮を中心として計75座の神々が祀られている。
これは祭神である八意思兼命が、多くの神々の意見を纏め、折々の聖断を下す神であるという神話に基づいている。
これは祭神である八意思兼命が、多くの神々の意見を纏め、折々の聖断を下す神であるという神話に基づいている。
本殿後ろ側の彫刻。写真中央に<北辰の梟>の彫刻。(かなり小さい...)
本殿左手にある<豊受大神宮>。
本殿左側の彫刻。写真左側に<お元気三猿>の彫刻がある。
拝殿左側の彫刻。これだけ美しい彫刻であれば、江戸時代には相当なインパクトがあったであろう。(その頃は、妙見信仰の対象であったようだが...)
拝殿の左手にある<神饌所>。
神饌所と参道の間にある<秩父宮妃殿下御手植銀杏>。1933年に秩父宮両殿下ご親拝の際、秩父宮勢津子妃殿下が御手植の銀杏が女性の乳房のように成長したため、「乳銀杏」とも呼ばれ親しまれているとのこと。
神門をくぐってすぐの、境内左側にある<神降石>。
神降石の後ろに建つ<柞稲荷(ははそいなり)神社>。
柞稲荷神社の右隣に建つ<諏訪神社>
諏訪神社の右手に建つ<日御碕宮(ひのみさきぐう)>。
日御碕宮と神饌所の間に立っている<諏訪神社御柱>。
最後にもう一度、とにかく彫刻が美しい社殿全景。
すてき
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惣一郎1269投稿
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