ふじいでら|真言宗御室派
葛井寺へのアクセス
近くの駅 | ◼︎近鉄南大阪線 ◼︎近鉄南大阪線 ◼︎近鉄南大阪線 Googleマップ等で出発地からのアクセスをご確認ください。 情報提供: HeartRails Express |
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参拝時間 | 8:00~17:00 |
電話番号 | 072-938-0005 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.fujiidera-temple.or.jp/ |
駐車場に関する投稿
西国三十三所巡礼
藤井寺駅のすぐ前にあるお寺です。
駐車場が見つけにくいので、車で行かれる場合は下調べをオススメします。
葛餅をお土産に買いました。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いします。
今年も新年早々に、大阪府東部と京都市の寺社仏閣の参拝に出掛けました。
帰宅後直ぐにスマホがビービー鳴っているので何かなと思ったら緊急地震速報、まあまあ揺れましたが大したことは無し。後に能登で震度7の地震が起こったと知り、新年早々被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて、先ず1寺目は、大阪府藤井寺市に在る紫雲山 葛井寺です。
元々は参拝の予定はなかったのですが、東大阪市の寺院へ行くルートで藤井寺ICで降りて向かうため、それならば藤井寺ICに近い葛井寺も併せて参拝しようと計画した次第です。
真言宗御室派で、本尊は国宝の千手千眼観世音菩薩。(この本尊は以前毎月18日と千日参りの8月9日に開帳でしたが、現在は毎月18日の様です。)
西国三十三所観音霊場 第5番札所。
こちらには過去何度もお邪魔しており、前回は2022年8月。前回分は投稿済みですので宜しかったら見てやって下さい。(代り映えしませんが。)
7世紀中頃に渡来の葛井連の氏寺として創建、725年に聖武天皇の勅願により行基を開山として千手千眼観音菩薩を造立。後に七堂伽藍を有するが、1493年に兵火により楼門、中門、三重塔、奥の院等を焼失。1510年に地震により倒壊。1645年に昌余により中興し、お堂等が再興されたとの事です。
寺院の駐車場はありませんので、いつものコインパーキングに駐車。初詣客で満車かな?と思いきや9時前だったからか2台しか駐車してありませんでした。
山門には「初詣」の看板が掲げられています。山門をくぐり境内に入りましたが、参拝客は疎らです。コロナが5類に移行したとは言えインフルエンザも流行っており、可能ならば人混みは避けたい所でしたので私的には良かったです。これから徐々に初詣客が増えてくるのでしょう。
手水は山門をくぐった直ぐにはなく、本堂手前左側にあります。手水で身を清めてから本堂へ。本堂下陣から手を合わせてから、下陣右側の納経所で御朱印を頂きました。
それから本堂左側の護摩堂へ、手を合わせてから弘法大師堂へ行って手を合わせました。阿弥陀二十五菩薩堂は改修工事中のためパス。
最後に重文の西門(四脚門)を見てから境内を出ました。
御朱印(軸装納経帳)
山門ー南大門
工事中の阿弥陀二十五菩薩堂
弁財天
弘法大師堂
鐘楼
手水
護摩堂
本堂
本堂外陣
西門(重文)
西国三十三所巡りでお参りしました。
街道から少し内側に入った 住宅地というか商業地というか まあまあ細い道を通り 専用ではないコインパーキングに車を停めました。
由緒のある寺院でも さすがに駐車場完備というわけにはいかないようです。大阪では。
立派な朱塗りの仁王門が見事です。
仁王門をくぐると 目の前にこれまた立派な本堂が現れます。
古い建物だというのは分かりますが 傷んでいる部分がわかりません。
とても大切に守られてきたということですね。素敵です。
左手に工事中の建物が・・・護摩堂でしょうか。かなり大きな工事です 参拝できるのはいつになるのでしょうか。
境内には立派な松がありました。看板によると 楠木正成公にゆかりのある松のようです。
松ってそんなに長命だったのでしょうか。驚きです。
工事の音は気になりましたが 素敵な空気を味わって 仁王門から出ることができました。
山号は紫雲山 宗旨宗派は真言宗御室派 ご本尊は十一面千手千眼観音菩薩(国宝)
創建年は神亀2年(725年) 開山は行基 開基は聖武天皇(勅願)です。
由緒については
寺伝によると聖武天皇より古子山葛井寺の勅号を得たとされている。
別説では元々は葛井連の氏寺であったとされている。
葛井連の前身である白猪氏は 『日本書紀』によれば 吉備国の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績により白猪氏の姓を賜ったとされている。
奈良時代の養老4年(720年)に白猪氏は葛井連(ふじいのむらじ)に改姓しており 葛井寺は 一族の葛井連広成が創建したとされている。
また 葛井一族からは大安寺僧である慶俊が出ている。
大同元年(807年)にの葛井氏の出身である藤子(葛井連道依娘)と平城天皇の間に生まれた皇子である阿保親王によって再建された。
また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した。
中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。
永長元年(1096年)には 大和国賀留の里の住人・藤井安基が 荒廃した伽藍を修理したと伝える。
境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり その頃に造営事業が行われたことが推定される。
平安時代後期から観音霊場として知られるようになり 西国三十三所観音霊場が成立すると その一つに数えられるようになった。
とありました。
正面
由縁
石柱
仁王門
弁財天社?
観世音菩薩らしい
太子堂
内陣
修行大師像
専心龍乗観世音菩薩
由縁
鐘楼
本堂
写真はここまで
工事中なのは 護摩堂かな
出世地蔵大菩薩
石柱
旗掛けの松
楠木氏縁の松です
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