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のまじんじゃ

野間神社
大阪府 妙見口駅

御朱印について御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
あり

境内に駐車可能

その他の巡礼の情報

延喜式内社

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歴史

当社は、地黄字森畑に鎮座する「延喜式」内の神社である。「延喜式」神名帳能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13年(605)9月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。
 また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜2甲午年(1054)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈艮県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通つた道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
 祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「草野姫命」、「野見宿弥」となつている。
 「饒速日命」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域、一帯は、物部氏の勢力下にあつて、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
 野見宿弥は、士器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より士器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
 社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より御霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(834~48)より、当地は朝廷典薬寮の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
 さらに平安時代の長暦元年(1037)、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅処権預(奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
 その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573~92)織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正16年(1588)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となつた。
 天正19年(1591)9月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を「東郷村誌」にみると、各村々の人数は合て1479人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
 その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。 以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(1658~61)に拝殿・大鳥居を造立、元文元年(1736)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の東側に建立された。 明治40年には、領内最奇りの神社10社が当社に合祀された。
 祭事としては、古来より毎年12月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に10月秋の大祭には、近郷稀な「たんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
[社頭掲示板より]

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野間神社の基本情報

名称野間神社
読み方のまじんじゃ
通称布留神社
参拝時間

参拝自由

参拝にかかる時間

約15分

参拝料

なし

トイレあり
御朱印あり
限定御朱印なし
御朱印帳に直書きなし
御朱印の郵送対応なし
御朱印帳なし
電話番号072-737-1166

お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

メールアドレスfurunokamuyashiro@gmail.com
ホームページhttps://info1830827.wixsite.com/noma-jinja

詳細情報

ご祭神饒速日命
拷幡比売命
鹿屋野比売命
ご神体勾玉(現存するかは不明)
創建時代推古天皇十三年(605年)
創始者野間連一族
本殿三間社流造
ご由緒

当社は、地黄字森畑に鎮座する「延喜式」内の神社である。「延喜式」神名帳能勢郡の条に、「野間神社」とある。当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の13年(605)9月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている。
 また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜2甲午年(1054)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈艮県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通つた道)「大原越え」を通り、「・・・地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
 祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「草野姫命」、「野見宿弥」となつている。
 「饒速日命」は物部氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域、一帯は、物部氏の勢力下にあつて、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
 野見宿弥は、士器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より士器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
 社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より御霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(834~48)より、当地は朝廷典薬寮の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
 さらに平安時代の長暦元年(1037)、能勢採銅所の設置により、布留社(野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅処権預(奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
 その後の戦乱期には、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(1573~92)織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正16年(1588)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となつた。
 天正19年(1591)9月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を「東郷村誌」にみると、各村々の人数は合て1479人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
 その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。 以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(1658~61)に拝殿・大鳥居を造立、元文元年(1736)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の東側に建立された。 明治40年には、領内最奇りの神社10社が当社に合祀された。
 祭事としては、古来より毎年12月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に10月秋の大祭には、近郷稀な「たんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
[社頭掲示板より]

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