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四天王寺ではいただけません
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四天王寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年07月11日(日)
参拝:2021年6月吉日
四天王寺は、大阪府大阪市天王寺区にある和宗の総本山の寺院。山号は荒陵山(あらはかさん)。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。聖徳太子建立七大寺の一つ。奈良・法興寺(飛鳥寺)と並び、日本最古の本格的仏教寺院。寺域(11万㎡)と伽藍配置はほぼ飛鳥時代のままで、寺域全体が国指定の史跡となっている。西国三十三所番外霊場ほか、さまざまな巡礼の札所となっている。
創建は推古天皇元年(593年)。『日本書紀』によると、用明天皇2年(587年)に蘇我氏と物部氏の武力衝突が起きた際、蘇我氏側の聖徳太子が膠木(ぬるで)の木で四天王像を彫り、戦いに勝利したならば必ず四天王を安置する寺塔を建てると誓願したところ、蘇我氏が勝利したために建立することとなった。
平安時代以降、聖徳太子が日本仏教の祖とされることから、当寺は太子信仰の中心として宗派を問わず信仰され、天皇、上皇、法皇のほか、新仏教の開祖である最澄、空海、法然、親鸞、良忍、一遍などが当寺に参篭している。また、当寺の西門は西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格を強めていき、海に沈む夕日を配する清池として多くの信者を集めてきた。
なお、建築や美術工芸品の観点からすると、当寺は平安時代から昭和時代まで、幾多の災害(天災も人災も)に遭っており、ことごとく焼失・倒壊しており、ほとんど残っていない。主な災害には、836年落雷に始まり、1467年応仁の乱、1576年織田信長の天王寺の戦い、1945年米軍の大阪大空襲など。なお、昭和戦後の1946年に天台宗から和宗に改宗し総本山となっている。
当寺は、JR大阪環状線・天王寺駅から北に500mほどの高台にある。寺域が東京ドームの2.3倍と広大で、かつ見どころが満載なので、これを数時間ですべて見て廻るのは難しい。仁王門・五重塔・金堂・講堂で構成される<中心伽藍>をメインで、他をプラスアルファのつもりで廻ってもけっこう大変。
今回は、大阪で一番の人気寺院として参拝することに。参拝時は平日の午後、境内には純粋な参拝者はあまりいない感じだったが、地元のご老人をはじめ、それなりの人数がいた。
創建は推古天皇元年(593年)。『日本書紀』によると、用明天皇2年(587年)に蘇我氏と物部氏の武力衝突が起きた際、蘇我氏側の聖徳太子が膠木(ぬるで)の木で四天王像を彫り、戦いに勝利したならば必ず四天王を安置する寺塔を建てると誓願したところ、蘇我氏が勝利したために建立することとなった。
平安時代以降、聖徳太子が日本仏教の祖とされることから、当寺は太子信仰の中心として宗派を問わず信仰され、天皇、上皇、法皇のほか、新仏教の開祖である最澄、空海、法然、親鸞、良忍、一遍などが当寺に参篭している。また、当寺の西門は西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格を強めていき、海に沈む夕日を配する清池として多くの信者を集めてきた。
なお、建築や美術工芸品の観点からすると、当寺は平安時代から昭和時代まで、幾多の災害(天災も人災も)に遭っており、ことごとく焼失・倒壊しており、ほとんど残っていない。主な災害には、836年落雷に始まり、1467年応仁の乱、1576年織田信長の天王寺の戦い、1945年米軍の大阪大空襲など。なお、昭和戦後の1946年に天台宗から和宗に改宗し総本山となっている。
当寺は、JR大阪環状線・天王寺駅から北に500mほどの高台にある。寺域が東京ドームの2.3倍と広大で、かつ見どころが満載なので、これを数時間ですべて見て廻るのは難しい。仁王門・五重塔・金堂・講堂で構成される<中心伽藍>をメインで、他をプラスアルファのつもりで廻ってもけっこう大変。
今回は、大阪で一番の人気寺院として参拝することに。参拝時は平日の午後、境内には純粋な参拝者はあまりいない感じだったが、地元のご老人をはじめ、それなりの人数がいた。
境内南西端にある<石の鳥居>。鎌倉時代後期1294年建立。扁額には嘉暦元年(1326年)の銘がある。国指定の重要文化財。
参道の左側にある<四天王寺高校・中学校>。
参道の左側にある<見真堂>と<親鸞聖人像>。
参道の右側にある<ちち布袋堂>。
参道の右側にある<水屋>。
中央伽藍の手前に大きく構える<極楽門>。
極楽門の北側にある<納経所>。御朱印はこちら。
極楽門をくぐって進むと、中央伽藍の入口<西重門(さいじゅうもん)>。
西重門をくぐって、左手の拝観受付へ。その後、回廊を南に進む。
中央伽藍の南寄りに立つ<五重塔>。初代から数えて八代目。
中央伽藍の北寄りに立つ<金堂>。
中央伽藍の北側に立つ<講堂>。
西重門から回廊を北向きに進んだところにある<龍の井戸>。昔から、中央伽藍の地下深くに流れる荒陵池の麗水には青龍が棲んでいて寺域を守護していると信じられてきたため、「龍の井」は中央伽藍で外せない重要な建物と認識されてきたとのこと。
井戸を覗くと、龍の姿が見えるそうだが、自分には見えない...?
【境内南西部】弘法大師修行像。
【境内南西部】大師堂。
【境内南西部】左から順に<阿弥陀堂>、<納骨堂>、<弘法大師像>。
境内南端にある<南大門>。
<南大門>から境内を望むと、中央に<仁王門>。
南大門から入ってすぐの場所にある<熊野権現遙拝所>。
中央伽藍の南端に位置する<仁王門>。
仁王門の右側に阿形仁王像。
仁王門の左側に吽形仁王像。
【境内南東部】写真左側の八角堂は<南鐘堂>。
<南鐘堂>正面。
【境内南東部】聖徳太子を祀るエリアの入口<虎の門>。
虎の門をくぐると<聖霊院太子殿>。手前が<前殿>、奥が<奥殿>。
【中央伽藍西側】普賢菩薩。
【中央伽藍西側】一乗院。
【中央伽藍西側】番匠堂。
【中央伽藍西側】花塚。
【中央伽藍西側】宝物館。
【中央伽藍西側】宝物館の右隣奥にある<用明殿>。
【中央伽藍西側】宝物館の左隣手前にある<石神堂>。<牛王尊>の扁額。
【境内北東部】<亀遊嶋辨天堂>の鳥居。
【境内北東部】<亀遊嶋辨天堂>の社。
【境内北東部】<亀井堂>外観。
【境内北東部】<亀井堂>内部。
【境内北東部】亀井堂の南側に建つ<亀井不動尊>。
【中央伽藍北側】東寄りに建つ<鼓楼>。扁額には<虚空蔵>の文字。
【中央伽藍北側】西寄りに建つ<北引導鐘堂>。表札には<黄鐘楼>とも。
【中央伽藍北側】建物は<六時礼賛堂>で、江戸時代初期の1623年徳川2代将軍秀忠による建立。国指定の重要文化財。
手前は<石舞台>で、江戸時代後期の1808年造営。当寺の最も重要な舞楽大法要「聖霊会(しょうりょうえ)」の舞台。住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台とともに「日本三舞台」の一つとされている。国指定の重要文化財。
手前は<石舞台>で、江戸時代後期の1808年造営。当寺の最も重要な舞楽大法要「聖霊会(しょうりょうえ)」の舞台。住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台とともに「日本三舞台」の一つとされている。国指定の重要文化財。
<六時堂>正面。名称は昼夜6回諸礼賛することに由来する。
<六時堂>内部正面。奥には薬師如来坐像と四天王像を安置。
石舞台の両側にある<亀の池>。
【北西部】ひときわ高い建物が<英霊堂>。聖徳太子の偉業を奉賛するため、1903年に「頌徳鐘楼」として建立され、世界最大の大梵鐘が釣られていたが、大梵鐘は戦時に供出された。
<英霊堂>正面。内部に本尊の木造阿弥陀如来立像と、左右に増長天、持国天を祀っている。
【北西部】英霊堂の左隣にある<三面大黒堂>。建立は不詳。再建は江戸時代末期1849年。
<大黒堂>正面。
【北西部】地蔵山の中央にある<地蔵堂>。
地蔵山の地蔵像たち。
【北西部】無縁塔。写真右側中央に立つのは、江戸時代後期1854年に甚大な被害をもたらした<安政地震津波碑>。
【北西部】墓地(四天王寺霊園)の中にある<元三大師堂>。江戸時代前期1623年建立。寄棟造、瓦葺。元三大師良源を祀る。国指定の重要文化財。
<元三大師堂>正面。
大阪府の寺院に初めて参拝したので御朱印帳を購入することに。オリジナルではないが、たくさんの種類がある。
すてき
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惣一郎1269投稿
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