しじょうなわてじんじゃ
四條畷神社大阪府 四条畷駅
9:00〜17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | |||
駐車場 | 無料駐車場あり |
大阪府四條畷市、四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)をお詣りいたしました。 建武中興十五社に列する明治23年(1890年)創建の神社で、南朝の忠臣・楠木正行(くすのきまさつら)を主祭神として祀ります。 正行の父である楠木正成(くすのきまさしげ)は南朝の武将として最後まで忠誠を尽くし、北朝方の足利尊氏(あしかがたかうじ)を相手に湊川の戦いで壮絶な最期を遂げますが、嫡子である正行もまた、父の遺志を継いで南朝のために戦い、ここ四條畷の地で儚く散りました。 この四条畷の戦いは正平3年/貞和4年(1348年)に圧倒的に兵力で勝る高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)ら北朝・室町幕府軍と、楠木正行と実弟の正時(まさとき)率いる南朝軍が激突し熾烈な戦いが繰り広げられますが、結果として南朝側は正行・正時らをはじめ多くの武将が戦死し大敗となり、その後南朝・吉野行宮は陥落することとなります。 吉野を立つ際に正行はこのことを予見してか、後醍醐帝の御廟に参拝し遺髪を献じて四条畷に向け出陣したとされています。 このときの正行の心情を推し量ることは難しいですが、湊川の戦いに向かった父・正成に倣って南朝のために命を賭して戦うことに迷いは無かったのではないかと思われます。 8月に奈良・吉野の如意輪寺にて「楠木正行辞世の扉 」を拝覧してから訪れてみたくなった四条畷神社。 境内には父・正成が湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった「桜井の別れ」の像がありました。
四条畷神社・神社名碑と参道
四条畷神社・石鳥居
四条畷神社・注連柱
四条畷神社・由緒書
四条畷神社・手水舎
四条畷神社・鳥居
鎮座100周年に際し、伊勢神宮から贈られたものだそうです。
四条畷神社・拝殿
四条畷神社・鳥居と拝殿
四条畷神社・摂社
御妣神社
四条畷神社・楠木正成、正行父子の「桜井の別れ」の像
忠孝両全と書かれています。
四条畷神社・正行、久子母子の像
貞仁両全と書かれています。
四条畷神社・摂社
楠天神社
四条畷神社・摂社
有源招魂社
御朱印
楠正行は楠正成の嫡男であり正成公の大楠公に対して小楠公と申し上げる卿は延元元年(1336)湊川へ出陣をせられる父君と櫻井の駅にて決別されたが時に御年十一歳爾来母君に考養を尽くして臥薪嘗胆読書練武に励み報恩の至情を捧げた正平二年(1347)12月後村上天皇に拝謁国難に殉せん事を誓い如意輪堂の扉に鏃をもって決死の和歌を遺された。
正行卿一族は寡兵よくこれを迎え撃ち獅子奮迅せられたが満身に創を受け遂に殉節せられた時に御年二十二歳の青年であったこの正義に燃えたる小楠公の事績と吉野朝史の一齣は四條畷に永く留められ万古に変えぬ飯盛山は青少年の徳義昴揚を叫び老松は史蹟を語っている。
名称 | 四條畷神社 |
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読み方 | しじょうなわてじんじゃ |
通称 | (小)楠公さん |
参拝時間 | 9:00〜17:00 |
参拝料 | なし |
トイレ | ニノ鳥居横にあり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
絵馬 | あり |
SNS |
建武中興十五社 第14番 | |
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神仏霊場巡拝の道 |
ご祭神 | 《主》楠正行,《配》楠正時,楠正家,楠正家子息,和田賢秀,和田正朝,和田紀六左衛門,和田紀六左衛門子息,和田紀六左衛門子息,大塚惟久,畠山与三職俊,畠山六郎,野田四郎,野田四郎子息,野田四郎子息,金岸(某),金岸(某)弟,関住良円,関住良円子息,三輪西阿,三輪西阿子息,河辺石掬丸,誉田(某),阿間了願,青屋刑部 別格官幣社 建武中興十五社の一社。 |
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創建時代 | 明治二十二年 |
ご由緒 | 楠正行は楠正成の嫡男であり正成公の大楠公に対して小楠公と申し上げる卿は延元元年(1336)湊川へ出陣をせられる父君と櫻井の駅にて決別されたが時に御年十一歳爾来母君に考養を尽くして臥薪嘗胆読書練武に励み報恩の至情を捧げた正平二年(1347)12月後村上天皇に拝謁国難に殉せん事を誓い如意輪堂の扉に鏃をもって決死の和歌を遺された。
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体験 | 御朱印武将・サムライ札所・七福神巡り |
概要 | 四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、大阪府四條畷市にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。建武中興十五社の一社。大阪みどりの百選に選ばれている。 南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や隣接する大東市民の間では単に「楠公さん」といえば正行や当社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生している。 境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。 |
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歴史 | 歴史[編集] 正平3年(1348年)1月、この地で四條畷の戦いが行われ、高師直・師泰兄弟が率いる北朝軍に南朝軍は敗北し、楠木正行、正時兄弟が自害したのを始め、多くの楠木一族が戦死した。その後、正行が自害した河内国讃良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる正行の墓が作られ、ひっそりと菩提が弔われた。 しかし、明治時代になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公(だいなんこう)として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ、崇められるようになった。それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御...Wikipediaで続きを読む |
アクセス | 交通アクセス[編集] JR西日本片町線(学研都市線) 四条畷駅から徒歩15分 |
行事 | 例祭[編集] 春季大祭・4月5日、秋季大祭・10月5日 |
引用元情報 | 「四條畷神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%9B%9B%E6%A2%9D%E7%95%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=101319011 |
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