たまいぐうとうしょうぐう
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楽しみ方玉井宮東照宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年09月21日(日) 00時11分20秒
参拝:2025年8月吉日
先日投稿させていただいた岡山縣護国神社から西へ約1km、車なら2~3分ほどのところに鎮座。
バイク神社としてライダーの方が多く訪れる神社なのだそうです。
禰宜の方がバイク好きだとかで、ツーリングの御守として「道楽御守」や、御刻印などもありました。
拝殿内には大きな蛇のモニュメントがあり、さらに奥のほうには卯と辰のモニュメントも。
来年は馬のモニュメントが登場するんでしょうね。
拝殿の右側から奥に進むと金龍社発見。
何か感じるものがあり、金龍社にお参りしているとどこからともなく風が吹いてきて、「よく来たな」というサインを送っていただいたような感じがしました。
とここで、さらに奥のほうからコンッ、コンッという木を叩くような音がしてきたので、目を凝らして見てみると啄木鳥がいるじゃないですか。
啄木鳥を見るのは初めてだったのでテンション上がって必死に写真を撮ったのですが、イマイチ・・・😅
気を取り直して本殿後方に進むと今度は白龍社があり、ここでもしっかりとお参り。
金龍社に白龍社とは、とてもありがたい気持ちになりました。
<御祭神>
豊玉比売命 彦火火出見命
玉依比売命 徳川家康公
<御由緒>~岡山県神社庁HPより~
本社は元児島郡小串村大字光明崎(今は米崎)に鎮座されていたが、応徳2年(1085)当東山に移転遷座して玉井宮と称せられるようになった。この遷座にあたり、次のような伝説がある。
その頃、社のあった山頂から、毎夜怪光が海面を照らし魚が恐れてよりつかず、漁師たちは困って其の事を神前に告げ、ご神託を受けた。ご神託は「御幣が舞い上がり飛んで行き上道郡門田の山中に立つ、そこへ遷座せよ」というものであった。その御幣が飛来し立った所がこの地(故にこの山を幣立山という)で、社名を玉井宮または玉の宮と称した。
その後、正保2年(1645)藩主池田光政公の命により、この地に岡山城並びに城郭の鎮守として東照宮を勧請するにあたり、玉井宮は、下の広場(今の駐車場)へ遷座され、国内別格5社の1社に列せられた。
東照宮は、日光から地方勧請がなされた初めての東照宮であり、後に建てられた地方の東照宮は、岡山の東照宮の勧請を習って創建された。また正保2年(1645)から明治3年頃(1872)までの227年間行われた東照宮御神幸は現在においても、岡山一の祭礼といわれている。
多くの崇敬を集めており玉井宮が米崎に鎮座していたころは、空海、円珍等の名立たる高僧の崇敬を集め、現在地に遷座してからは初代岡山城城主である宇喜多家を始め、代々の城主や武士、農民の崇敬と厚い庇護を受けた。
明治14年(1881)玉井宮と東照宮は合祀され、社名を玉井宮東照宮とし、県社に列格した。明治33年(1900)旧玉井宮の建物を移転し、西日本屈指の大拝殿の建立等大造営が行われた。その立派な社殿郡も平成元年(1989)1月31日未明不慮の火災により、幣拝殿・神饌所・社務所・参集所等焼失した。しかし、氏子崇敬者の尽力により、4年の歳月をかけ現在の姿に復興した。 ご利益として、嘉永3年(1850)高松中納言季実卿の執奏により、岡山で唯一、皇后ご安産のご祈願を行い、当時の祠官佐々木左兵衛介は上京参内しお守り札を献上している。その時高松中納言から「大君の御子のいのりの功績を雲井に高くきこえあげたり」という和歌が下され、ご祭神のいわれとともに安産の神様として崇敬を集めてきた。
バイク神社としてライダーの方が多く訪れる神社なのだそうです。
禰宜の方がバイク好きだとかで、ツーリングの御守として「道楽御守」や、御刻印などもありました。
拝殿内には大きな蛇のモニュメントがあり、さらに奥のほうには卯と辰のモニュメントも。
来年は馬のモニュメントが登場するんでしょうね。
拝殿の右側から奥に進むと金龍社発見。
何か感じるものがあり、金龍社にお参りしているとどこからともなく風が吹いてきて、「よく来たな」というサインを送っていただいたような感じがしました。
とここで、さらに奥のほうからコンッ、コンッという木を叩くような音がしてきたので、目を凝らして見てみると啄木鳥がいるじゃないですか。
啄木鳥を見るのは初めてだったのでテンション上がって必死に写真を撮ったのですが、イマイチ・・・😅
気を取り直して本殿後方に進むと今度は白龍社があり、ここでもしっかりとお参り。
金龍社に白龍社とは、とてもありがたい気持ちになりました。
<御祭神>
豊玉比売命 彦火火出見命
玉依比売命 徳川家康公
<御由緒>~岡山県神社庁HPより~
本社は元児島郡小串村大字光明崎(今は米崎)に鎮座されていたが、応徳2年(1085)当東山に移転遷座して玉井宮と称せられるようになった。この遷座にあたり、次のような伝説がある。
その頃、社のあった山頂から、毎夜怪光が海面を照らし魚が恐れてよりつかず、漁師たちは困って其の事を神前に告げ、ご神託を受けた。ご神託は「御幣が舞い上がり飛んで行き上道郡門田の山中に立つ、そこへ遷座せよ」というものであった。その御幣が飛来し立った所がこの地(故にこの山を幣立山という)で、社名を玉井宮または玉の宮と称した。
その後、正保2年(1645)藩主池田光政公の命により、この地に岡山城並びに城郭の鎮守として東照宮を勧請するにあたり、玉井宮は、下の広場(今の駐車場)へ遷座され、国内別格5社の1社に列せられた。
東照宮は、日光から地方勧請がなされた初めての東照宮であり、後に建てられた地方の東照宮は、岡山の東照宮の勧請を習って創建された。また正保2年(1645)から明治3年頃(1872)までの227年間行われた東照宮御神幸は現在においても、岡山一の祭礼といわれている。
多くの崇敬を集めており玉井宮が米崎に鎮座していたころは、空海、円珍等の名立たる高僧の崇敬を集め、現在地に遷座してからは初代岡山城城主である宇喜多家を始め、代々の城主や武士、農民の崇敬と厚い庇護を受けた。
明治14年(1881)玉井宮と東照宮は合祀され、社名を玉井宮東照宮とし、県社に列格した。明治33年(1900)旧玉井宮の建物を移転し、西日本屈指の大拝殿の建立等大造営が行われた。その立派な社殿郡も平成元年(1989)1月31日未明不慮の火災により、幣拝殿・神饌所・社務所・参集所等焼失した。しかし、氏子崇敬者の尽力により、4年の歳月をかけ現在の姿に復興した。 ご利益として、嘉永3年(1850)高松中納言季実卿の執奏により、岡山で唯一、皇后ご安産のご祈願を行い、当時の祠官佐々木左兵衛介は上京参内しお守り札を献上している。その時高松中納言から「大君の御子のいのりの功績を雲井に高くきこえあげたり」という和歌が下され、ご祭神のいわれとともに安産の神様として崇敬を集めてきた。



随神門



随神門をくぐってすぐ右手:坂中荒神社

随神門をくぐってすぐ左手:天満宮

筆塚

拝殿前には注連柱

拝殿

拝殿内の蛇
奥には卯と辰がありますね
奥には卯と辰がありますね


拝殿内天井には家紋
氏子の方々のものでしょうか
氏子の方々のものでしょうか


金龍社

啄木鳥
わかります?
わかります?

出雲大社遥拝所
他にも伊勢神宮遥拝所、熱田神宮遥拝所、宇佐八幡宮遥拝所、鵜戸神宮遥拝所があるみたいです
他にも伊勢神宮遥拝所、熱田神宮遥拝所、宇佐八幡宮遥拝所、鵜戸神宮遥拝所があるみたいです

本殿後方から

白龍社

少宮社

三勲神社

玉満稲荷社
すてき
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