ちゅうぐうじ
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中宮寺ではいただけません
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中宮寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年01月23日(火)
参拝:2024年1月吉日
【法興山(ほうこうざん)中宮寺(ちゅうぐうじ)】
本尊:如意輪観音
宗派:聖徳宗
開基:聖徳太子
~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第7番~
中宮寺は、聖徳太子が母である穴穂部間人太后(あなほべのはしひとたいこう)の菩提を弔うために、寺を造営したと伝えられている。創建されたときは、現在地から東に500メートル離れた位置にあり、当初は、約30メートルの高さの五重塔がそびえ、七堂伽藍を有した大寺院だったといわれている。しかし、平安時代には荒廃し、鎌倉時代に再興されたが、ふたたび火災で伽藍を失ったという。現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院となった16世紀末頃と推定される。現在の本堂は、高松宮妃殿下の御発願によるもので、1968(昭和43)年に完成している。
~『百寺巡礼 第一巻 奈良』五木寛之(講談社、2003)~
法隆寺の隣に位置する中宮寺、「考える像」として有名な御本尊に会いたくて足を延ばしました。
本尊:如意輪観音
宗派:聖徳宗
開基:聖徳太子
~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第7番~
中宮寺は、聖徳太子が母である穴穂部間人太后(あなほべのはしひとたいこう)の菩提を弔うために、寺を造営したと伝えられている。創建されたときは、現在地から東に500メートル離れた位置にあり、当初は、約30メートルの高さの五重塔がそびえ、七堂伽藍を有した大寺院だったといわれている。しかし、平安時代には荒廃し、鎌倉時代に再興されたが、ふたたび火災で伽藍を失ったという。現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院となった16世紀末頃と推定される。現在の本堂は、高松宮妃殿下の御発願によるもので、1968(昭和43)年に完成している。
~『百寺巡礼 第一巻 奈良』五木寛之(講談社、2003)~
法隆寺の隣に位置する中宮寺、「考える像」として有名な御本尊に会いたくて足を延ばしました。
【本堂】
【山門】
【表御殿】
【表御殿】
【本堂】
本堂には、穏やかなほほえみを浮かべた有名な半跏思惟像(はんかしゆいぞう)(国宝)が安置されています。
~この像は、寺伝では「如意輪観音」として伝えられている。しかし、美術史的に見ると「弥勒菩薩」だという。特徴的なのはそのポーズで、片足を他の足の上に組んで座った状態を示している。この「半跏」というのは「半跏踏下(はんかふみさげ)」のことで、腰かけて左足を下げ、右足を組んだ形である。(中略)私がこの像の前でいちばん素直に感じたのは、自分が許されているという気持ちかもしれない。自分はいま許されているのだ、と。幼児が母親に甘えるような感情が、体のなかにひろがってくる。~
本堂には、穏やかなほほえみを浮かべた有名な半跏思惟像(はんかしゆいぞう)(国宝)が安置されています。
~この像は、寺伝では「如意輪観音」として伝えられている。しかし、美術史的に見ると「弥勒菩薩」だという。特徴的なのはそのポーズで、片足を他の足の上に組んで座った状態を示している。この「半跏」というのは「半跏踏下(はんかふみさげ)」のことで、腰かけて左足を下げ、右足を組んだ形である。(中略)私がこの像の前でいちばん素直に感じたのは、自分が許されているという気持ちかもしれない。自分はいま許されているのだ、と。幼児が母親に甘えるような感情が、体のなかにひろがってくる。~
【會津八一歌碑】
「みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の あさ の ひかり の ともしきろ かも」
奈良を愛した越後の人 會津八一、自筆歌碑が奈良の地で多くみられます。
「みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の あさ の ひかり の ともしきろ かも」
奈良を愛した越後の人 會津八一、自筆歌碑が奈良の地で多くみられます。
【會津八一歌碑】
【御朱印】
すてき
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