とうだいじ
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東大寺ではいただけません
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東大寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2023年03月26日(日)
参拝:2023年1月吉日
この日、続いては東大寺へ。 こちらも約3年半ぶりのお参りです。 興福寺を後に途中、奈良公園内の土産物屋や鹿とのふれあいを楽しみながら徒歩で向かいます。 東大寺(とうだいじ)は、奈良の大仏で知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とした華厳宗大本山の寺院で、ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の構成遺産の一つとして登録されています。
東大寺といえば日本人であれば誰もが知っている有名なお寺ですが、その起源は神亀5年(728年)、第45代天皇である聖武天皇と光明皇后が皇太子基親王(もといしんのう)の菩提を弔うために若草山麓に建立させた金鐘寺/金鍾寺(きんしゅうじ/こんしゅじ)という寺院であるとされ、天平13年(741年)に国分寺・国分尼寺の建立の詔が発布されたのを受け、翌天平14年(742年)大和国の国分寺と定められると金鐘寺は金光明寺(こんこうみょうじ)と寺号が改められます。 この時代、長屋王(ながやおう/ながやのおおきみ)の変に象徴される権力闘争や藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の九州での蜂起といった政変や内乱、さらには天然痘流行や天平の大地震など、疫病や災害が多発したことで、世を憂いた聖武天皇は深く仏教に帰依することとなり、仏教による国家鎮護を目的として、当時の日本の各国に国分寺・国分尼寺の建立を命じて、大和国金光明寺はその国分寺の総本山と位置づけられました。 因みに国分寺の正式名は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」とも言い、国分尼寺の総本山は同じく奈良にある法華寺に指定されます。 聖武天皇はさらに天平15年(743年)に盧舎那大仏造顕(造立)の詔を発せられ、一時都を移していた近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)の紫香楽宮(しがらきのみや)より再び都を平城京へと戻すと、大仏造立は大和国金光明寺に於いて行われることとなり、同時に大仏殿の建立も進んで、天平勝宝4年(752年)に盛大な開眼供養会が営まれました。 その後「造東大寺司」によって七堂伽藍が整備される頃には、平城京東方に当たる官寺から「東大寺」という寺号が用いられるようになったと云われています。 こうして国分寺の総本山として建立・整備された東大寺は同時に、仏教の教理を研究し学僧を養成する役目も擁して、奈良時代には南都六宗を、さらに平安時代には天台と真言も加えられ、八宗兼学の学びの場として栄えました。 平安京遷都後には伽藍の各所で荒廃が見られるようになるものの、隣接する興福寺とともに大きな大衆の力を持ち、多くの荘園を有していた東大寺は、他の「南都七大寺」と呼ばれた寺院の多くが奈良時代以降に衰退を重ねて江戸時代になる頃には当初の規模を想像できないほど荒廃していった状況と比べると、比較的その規模は維持されていきます。 しかし東大寺は中世以降、二度の兵火で伽藍の多くを焼失する歴史も有します。 一つ目は、治承4年(1180年)の所謂「南都焼討」で、平清盛(たいらのきよもり)の命を受けた平重衡(たいらのしげひら)ら平氏軍の襲撃によって興福寺は全焼、東大寺も主要伽藍のほとんどが焼け落ちるといった被害を、さらに戦国時代の永禄10年(1567年)には、永禄の変に端を発する東大寺大仏殿の戦い(多聞山城の戦い)で、松永久秀(まつながひさひで)、三好義継(みよしよしつぐ)の軍と「三好三人衆」~三好長逸(みよしながやす)、 三好政康(みよしまさやす)、岩成友通(いわなりともみち)と筒井順慶(つついじゅんけい)らの軍によって東大寺周辺で市街戦が繰り広げられ、二月堂や法華堂、南大門や転害門など一部の建物を除き、大仏殿をはじめ戒壇院などの東大寺の主要な建造物をことごとく焼き尽くすといった大規模な被害を被ることとなります。 この様に戦火で二度も焼き尽くされた東大寺ですが、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)や公慶上人(こうけいしょうにん)の尽力によりその都度再建に取り組み、明治・昭和時代には大仏殿の大修理をはじめ諸伽藍の維持に努めてきたことで、東大寺は今にその姿を残しています。
今では国内はもとより世界各国から参拝者が多く訪れる日本有数の観光スポットである東大寺ですが、その規模や地位を創建の時期から現在に至るまで比較的変わらずに守ってきた貴重な寺院であり、それは寺院復興に携わった先人たちの苦労の基に成り立っていることを忘れないでおきたいものです。
東大寺といえば日本人であれば誰もが知っている有名なお寺ですが、その起源は神亀5年(728年)、第45代天皇である聖武天皇と光明皇后が皇太子基親王(もといしんのう)の菩提を弔うために若草山麓に建立させた金鐘寺/金鍾寺(きんしゅうじ/こんしゅじ)という寺院であるとされ、天平13年(741年)に国分寺・国分尼寺の建立の詔が発布されたのを受け、翌天平14年(742年)大和国の国分寺と定められると金鐘寺は金光明寺(こんこうみょうじ)と寺号が改められます。 この時代、長屋王(ながやおう/ながやのおおきみ)の変に象徴される権力闘争や藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の九州での蜂起といった政変や内乱、さらには天然痘流行や天平の大地震など、疫病や災害が多発したことで、世を憂いた聖武天皇は深く仏教に帰依することとなり、仏教による国家鎮護を目的として、当時の日本の各国に国分寺・国分尼寺の建立を命じて、大和国金光明寺はその国分寺の総本山と位置づけられました。 因みに国分寺の正式名は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」とも言い、国分尼寺の総本山は同じく奈良にある法華寺に指定されます。 聖武天皇はさらに天平15年(743年)に盧舎那大仏造顕(造立)の詔を発せられ、一時都を移していた近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)の紫香楽宮(しがらきのみや)より再び都を平城京へと戻すと、大仏造立は大和国金光明寺に於いて行われることとなり、同時に大仏殿の建立も進んで、天平勝宝4年(752年)に盛大な開眼供養会が営まれました。 その後「造東大寺司」によって七堂伽藍が整備される頃には、平城京東方に当たる官寺から「東大寺」という寺号が用いられるようになったと云われています。 こうして国分寺の総本山として建立・整備された東大寺は同時に、仏教の教理を研究し学僧を養成する役目も擁して、奈良時代には南都六宗を、さらに平安時代には天台と真言も加えられ、八宗兼学の学びの場として栄えました。 平安京遷都後には伽藍の各所で荒廃が見られるようになるものの、隣接する興福寺とともに大きな大衆の力を持ち、多くの荘園を有していた東大寺は、他の「南都七大寺」と呼ばれた寺院の多くが奈良時代以降に衰退を重ねて江戸時代になる頃には当初の規模を想像できないほど荒廃していった状況と比べると、比較的その規模は維持されていきます。 しかし東大寺は中世以降、二度の兵火で伽藍の多くを焼失する歴史も有します。 一つ目は、治承4年(1180年)の所謂「南都焼討」で、平清盛(たいらのきよもり)の命を受けた平重衡(たいらのしげひら)ら平氏軍の襲撃によって興福寺は全焼、東大寺も主要伽藍のほとんどが焼け落ちるといった被害を、さらに戦国時代の永禄10年(1567年)には、永禄の変に端を発する東大寺大仏殿の戦い(多聞山城の戦い)で、松永久秀(まつながひさひで)、三好義継(みよしよしつぐ)の軍と「三好三人衆」~三好長逸(みよしながやす)、 三好政康(みよしまさやす)、岩成友通(いわなりともみち)と筒井順慶(つついじゅんけい)らの軍によって東大寺周辺で市街戦が繰り広げられ、二月堂や法華堂、南大門や転害門など一部の建物を除き、大仏殿をはじめ戒壇院などの東大寺の主要な建造物をことごとく焼き尽くすといった大規模な被害を被ることとなります。 この様に戦火で二度も焼き尽くされた東大寺ですが、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)や公慶上人(こうけいしょうにん)の尽力によりその都度再建に取り組み、明治・昭和時代には大仏殿の大修理をはじめ諸伽藍の維持に努めてきたことで、東大寺は今にその姿を残しています。
今では国内はもとより世界各国から参拝者が多く訪れる日本有数の観光スポットである東大寺ですが、その規模や地位を創建の時期から現在に至るまで比較的変わらずに守ってきた貴重な寺院であり、それは寺院復興に携わった先人たちの苦労の基に成り立っていることを忘れないでおきたいものです。
東大寺・南大門
東大寺・南大門
金剛力士(仁王)像/阿形像
金剛力士(仁王)像/阿形像
東大寺・南大門
金剛力士(仁王)像/吽形像
金剛力士(仁王)像/吽形像
東大寺・勧進所
東大寺・中門
東大寺・中門
持国天像
持国天像
東大寺・中門
兜跋毘沙門天像
兜跋毘沙門天像
東大寺・大仏殿
東大寺・鐘楼
東大寺・鐘楼
東大寺・法華堂(三月堂)
東大寺・法華堂(三月堂)
東大寺・不動堂
東大寺・法華堂経庫
東大寺・世界遺産登録記念の石碑
すてき
投稿者のプロフィール
らんでぃー342投稿
令和になってから奈良の興福寺を参拝したのをきっかけに、御朱印を集めるようになりました。今では夫婦で神社仏閣巡りを楽しんでいます。妻は置物御籤もコレクションしています。
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