さいだいじしゃくらくじんじゃほんでん
西大寺石落神社本殿
奈良県 大和西大寺駅
西大寺石落神社(西大寺しゃくらく神社)
西大寺東門を出てすぐにある石落神社は、
室町時代仁治3年(1242)に建立された
檜皮葺の社殿が一つだけの
小さな祠の神社です。
(現在は春日造の檜皮葺一間社です。)
かつて叡尊(えいそん)上人が三輪から少彦名命(石落神)を勧請されお祀りする形で創建されたと伝わります。
近世の医薬は受容する側の意識としては効能を神仏によって保証されていた 「呪物」 でもあり呪薬法会などに奉祀されてきました。
わが国最古の売薬として著名な豊心丹はこの石落神が授与した秘薬という由来によって製作された漢方薬です。
また、石落神を祀ったことには奈良時代の
西大寺における「石の祟り」が端を発していると『続日本紀』に記されています。
破却西大寺東塔心礎。
其石大方一丈餘。厚九尺。
東大寺以東。飯盛山之石也。
初以數千人引之。
日去數歩。時復或鳴。
於是。益人夫。九日乃至。
即加削刻築基已畢。
時巫覡之徒。動以石崇爲言。
於是。積柴燒之。潅以卅餘斛酒。
片片破却。棄於道路。
後月餘日。天皇不予。
ト之破石爲崇。即復拾置淨地。
不令人馬踐之。
今其寺内東南隅數十片破石是也。
東塔の心礎に据えようとした大石が
数千人で動かしてもほとんど動かず、
時に唸り声をあげました。
なんとか基礎を築きましたが、祟りがあるかもしれないということで石を焼き、酒を注ぎ、
砕いて棄てられました。
その後、称徳天皇は病となられ、
この年の8月に崩御されます。
砕いた石の祟りということで、再び拾い、
清らかな土地に置き、人馬が踏まないように
祀られました。
~・~・~・~
亀山上皇は元寇の際に「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮をはじめ、異国降伏の祈祷を寺社に命ずる一方、西国とくに九州の防備体制を固めるなど、国内はにわかに緊張状態にありました。
蒙古襲来を契機に大社寺は一斉に戦勝祈願に専念し、幕府が戦後これに対する報賽 (ほうさい)の意味で寺社保護政策を推し進めます。
その中で、蒙古フビライ・ハーンの二度目の襲来に、長崎~博多、長門まで壊滅的打撃を受けますが、上陸早々に元軍は退散することとなります。
日本に於ける本来の『東風神風』が吹き、台風もきました。それは叡尊上人の祈願の翌日に東風神風は起きたそうです。
いわゆる「神風」が直接的に戦勝に導いたことなどから、以後神国思想が広範に流布していきました。
元寇(げんこう )
鎌倉時代の半ば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われた蒙古(もうこ:元)の日本侵略。
文永の役 (ぶんえいのえき)・弘安の役 (こうあんのえき)、蒙古襲来ともいい、当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定着しました。
奈良市西大寺南町1-19
安倍元総理とご家族さまへ
西大寺の門の前にある小社です。これも神社というにはどうよと思う小社ですが、とにかく気になったんです(苦笑)
立て看板によると、
「この本殿は正面に階段を設けず一面に床をはる見世棚造となっており、装飾のない簡素な建物である。古式な要素が各所に見られ風蝕も著しく建立年代室町時代の中頃とみられる。奈良に多い見世棚造小社殿の中でも年代の特に古いものとして貴重なものである。 奈良教育委員会」
と、ありました。
なるほど、確かに奈良にはこのような小社がよく見られます。「見世棚造」というんですねと初めて知った場所でした。
西大寺にはよく行くのだけど、鎮守社というのは判っていたけど何を祀っているんだろうって不思議に思ってました。
だいたい石落神ってなに?って(苦笑)
「奈良まちあるき風景紀行」というサイトで
「祭神としては「石落神」が祀られ、その起源はかつて西大寺東塔の礎石を廃棄する際に称徳天皇を取り巻いて発生したとされる「石の祟り」に由来するものとも言われています。また、石落神は秘薬を授け、それに基づいて、「豊心丹」と呼ばれる漢方薬が製造されるようになったという逸話も残っています」とありました。
なんと、祟り神!!
薬という話は多分西大寺のwebサイトにあるように最初に少彦名命を勧請したからだろうなって思うんですが、別サイトで、
「東塔心礎を破却のとき、石の祟りを恐れて小石に割って道に捨てたが、その後天皇が病気になったので石を寺内の浄地においた・・と「続日本記」にあります」とあって、やはり祟り神・・・。
まぁ、日本人はしたたかだから祟り神を祀って転じて福の神にする事は古来からあったことで、それにしてもこれ、付喪神ですよね(笑)
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