れいきゅうじんじゃ
霊丘神社長崎県 島鉄本社前駅
参拝/24時間
【肥前國 古社巡り】
霊丘神社(れいきゅう~)は、長崎県島原市辨店長にある神社。旧社格は県社。祭神は徳川家康公(東照大権現)、宗像大神、稲荷明神、島原藩主・松平氏の霊7柱。
江戸時代前期、島原の乱(1637年)の後、島原に入封した高力忠房によって東照宮が勧請されたことに始まる。明治時代の1883年には高力氏の後を受けた島原藩主・松平氏(深溝松平氏)七代の霊を合祀し、社名を「霊丘神社」と改称した。
当社は、島原鉄道・霊丘公園体育館駅の南東100mの霊丘公園の中央部、平地にある。おそらく元々当社境内であったところに、島原市の体育館、弓道場、庭球場、相撲場などを造ったと思われるため、どこまでが公園でどこまでが当社境内なのかは分からないが、神社関係エリアと思われる部分はかなり広い。基本的には本社社殿の周りに社務所や境内社が建っているが、境内の大きな池を挟んで100m以上南方にも満島稲荷神社がある。
今回は、長崎県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は休日の午後遅めの時間ではあったが、自分以外にも数人参拝者を見掛けた。
島原鉄道の線路脇にある、境内西端入口全景。巨大な看板で分かりやすい。
境内入口の右手(南側)にある<C12機関車>。1968年まで島原鉄道で使われていた最後の蒸気機関車らしい。
境内入口の左手(北側)にある、島原半島内に島原鉄道などの鉄道網を敷設した、初代島原市長<植木元太郎の像>。
境内西端入口の<一の鳥居>と<社号標>。写真右手の低い社号標には「縣社 霊丘神社」と刻まれている。
一の鳥居をくぐって参道を数十m進むと、右手には大きな池が広がる。
池の脇に真っ赤な鳥居が並んでいるので進んでみる。
たくさんの鳥居の先にある<稲荷神社>。
池のほとりまで戻って、池の東側にある<原爆殉難者の碑>。
池のほとりから見た<二の鳥居>。
二の鳥居をくぐって左手にある<手水舎>。
<拝殿>全景。古い木造の躯体に瓦屋根の大きな拝殿。
拝殿前左側の<狛犬>。足長で立ち上がってる?強烈な個性を放っていて、しばし見とれてしまう。
拝殿前右側の<狛犬>。座り込んでも強烈なインパクト。
<拝殿>正面。寺院っぽい巨大な扁額。漢字が読めないけど、どういう意味なのかしら...?(。´・ω・)?
<拝殿>内部。
拝殿から振り返って境内全景。
拝殿後ろの<本殿>。幣殿までが瓦葺で、本殿は銅板葺の立派なもの。
拝殿に向かって右手にある<授与所>。御朱印はこちら(無人の場合はお電話)。
拝殿の左側の建物。
拝殿に向かって左手にある境内社。
参道から見て手水舎の後方にある<蚕霊神社>。
参道途中の右側にある<皇居奉仕 至誠之碑>。
至誠の碑の右側にある<潜龍園神社>の鳥居。
<潜龍園神社>の社殿。
最後に、社務所前から見た<拝殿>全景。地元に根付いた大きな神社。(^▽^)/
徳川家康を祀る「霊丘神社」
島鉄本社前駅のすぐ東側にある霊丘公園の中にある。
駐車場境内。
広い霊丘公園の途中にある。
石鳥居をくぐり、階段を登り正面拝殿。
右手に社務所、無人でした。
境内に平和記念碑や、原爆殉難者之碑が立つ。つい数日前に長崎原爆の日であったためか綺麗な千羽鶴が供えられていた。
島原の乱以降に民心鎮定祈願のために人気の徳川家康を祀る東照宮を勧請したのが始まりだそうです。
長崎で家康祭神ってのは珍しい気がする。それ以前に九州で家康祭神ってあんまりないような気がする、知らんけど。
拝殿は見えるのに鳥居にたどり着けないで、公園内で迷った。
鳥居
拝殿
原爆殉難者之碑
境内
名称 | 霊丘神社 |
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読み方 | れいきゅうじんじゃ |
参拝時間 | 参拝/24時間 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
全国東照宮連合会 第47番 |
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ご祭神 | 源家康,宗像大神,稲荷大神,松平忠定,松平好景,松平伊忠,松平家忠,松平忠利,松平忠房,松平忠和 |
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創建時代 | 寛文4年(1664) |
創始者 | 高力氏 |
ご由緒 | 当社は島原の乱後の民心鎮定祈願のため、領主高力氏が寛文4年(1664)当時領民の信仰が厚かった源家康公を祀る東照宮を勧請したのが創めである。
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体験 | 御朱印 |
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