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真宗大谷派

善勝寺
長野県 桜町駅

写真

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名称善勝寺
電話番号0265-24-0420
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詳細情報

宗旨・宗派真宗大谷派
ご由緒

開山源海上人は藤原鎌足の末孫で、俗姓日野真夏11世安藤駿河守隆光と称する武蔵国豊島郡荒木村(現・埼玉県行田市)を領する鎌倉時代の坂東武者で、武州児玉党の随一といわれていた。
隆光は寵愛する花寿丸(7歳)と月寿丸(5歳)の二人の息子をはやり病のため同時に失い、悲嘆にくれた。
 隆光36歳のある夜、亡くなった二児が枕辺に立ってこう告げたという。「われら兄弟は、西方浄土に赴いて観音と勢至菩薩となった。汝は未来永劫、悪道に堕ちるは必定なり。われら汝の二子となり、世の無常を目の当たりに見せしめた。すみやかに仏法を聴聞し、本願の大道に帰入すべし。」それが機縁で仏門を志したと伝える。
 それを動機に遁世して江ノ島の岩屋に籠って修行した。ところが、或る夜、夢にもあらず、二童児が来って「今東関に権化の僧あり。弥陀の本願を説きて時機相応の教えを弘む。速やかに彼処に至って聖化を受けたまえ。我は観音、勢至の二菩薩なり」と告げて、西方の雲にかくれた。
 その頃後に浄土真宗の開祖となった親鸞(1173―1262)は、越後に流配され、四年後赦免されたが帰京せず、1214(建保2)年妻忠信尼を伴ない関東に移住し、以後約20年間民衆の布教に専念した。
 隆光、後の荒木源海が常陸笠間の稲田の草庵に親鸞を訪ねて、弟子となったという。

 1245(寛元3)年、隆光が故郷へと志したとき、聖人の形見として、聖徳太子自作といわれる太子像(木像)を譲られた。帰りの途中江の島の岩屋に参篭し、夜の波間に浮遊する光るものを取り上げ、立像の阿弥陀如来を感得したとされる。霊場をもとめて砥上ヶ原にきた源海は、鵠の棲む沼地の一方を埋めて、一宇を創立し鵠沼山万福寺と号し、鎌倉南倉田荘に一寺を建立し、長延寺と号し、かの尊像阿弥陀如来を安置し、開基創建した。
1250(建長 2)年、万福寺を真弟(実子で僧職継承者)誓海に譲り、故郷武蔵国荒木に還り、荒木万福寺を開山、1253(建長 5)年10月22日に源海上人は故郷武蔵国荒木で入寂した。

長延寺は北条氏の軍兵に焼き討ちされ、甲府に移り、武田信玄の帰依を受け、寺領を寄進されるが、16世紀後半、織田信長の甲州攻めにより、寺は兵火に包まれ、実了の次男、祐了は、本尊を奉じて武田氏と運命を共にし、諏訪、宮田の各地に移り、優れた教化によって数多くの念仏者を各地に生み出し、下伊那に入った祐了は地元の豪族別府下井氏の帰依を受けて、高松の地の天台宗善勝寺に入山し、寺を真宗に改めた。(現在の飯田女子高等学校の位置) やがて16世紀末、飯田領主毛利守秀頼の政策で、現在の伝馬町に移住、龍臥山善勝寺と称するようになった。

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