おおみけじんじゃ
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楽しみ方大御食神社のお参りの記録一覧

南信の神社②
大御食神社(おおみけじんじゃ)
大和武尊が東征の際に立ち寄り接待を受け大御食の名を賜り、接待をした姫がとても美しかったのでこの地を美女ヶ森と名付けたとのこと。
境内はとても広くて綺麗に整備されていた。神楽殿が新しく整備され、宝物庫の壁には龍🐉が漆喰で彫刻されていました。😍
本殿の彫刻が見事です。
境内の末社も綺麗に供えられて社名もきちんと書かれていました。
由緒を疑われて郷社止まりですが、神話になるほどの由緒ある神社だと思います。
その沿革は、明治5年(1872年)に「由緒明らかならず」として郷社に留まっているため、不明である。
大御食神社には「神代文字社伝記」と呼ばれるいわゆる「神代文字」で記された社伝記が存在している。これを解読したのは「神代文字」肯定派の平田篤胤の影響を受けたとされる落合直澄であるが、彼の兄であり同じく平田篤胤の影響を受けていた落合直亮が後に伊勢神宮で和歌等を神代文字で書かせて保存させ偽物騒ぎを起こした人物のため、この神字社伝も捏造された偽書であるとされた。
在野の歴史家・伴崎史郎が駒ヶ根市の市史編纂室において、大御食神社の社伝記に言及したところ、編纂室の「K氏」は「神代文字は、皇国史観の産物であり、信用できない」と社伝記の真実性を否定している。
以下は「神代文字社伝記」を参考に記したものである。
景行天皇41年 - 日本武尊来臨。
景行天皇58年 - 創建。日本武尊を奉斎。
応神天皇8年7月 - 尾張国より五郎姫神を勧請。
元慶3年(879年)3月15日 (旧暦)、石清水八幡宮より誉田別尊を勧請。
寛平3年(891年)3月15日 (旧暦) - 大和国(現・奈良県)の春日大社より流鏑馬が伝わる。
応永15年(1408年)3月15日 (旧暦) - 流鏑馬神事を境内で行うようになる。
明和4年(1767年) - 氏子より祭事用獅子頭を寄進される。
天明2年(1782年)8月 - 神官宅にて火災、古文書の多くを焼失。
文久3年(1863年)9月 - 本殿釿始め(おのはじめ)。
元治元年(1864年)4月 - 本殿地鎮祭。
明治2年(1869年)5月 - 落合直澄が神代文字社伝記を解読する。
明治5年(1872年)11月 - 当社の社格が郷社に列せられる。

参道 鳥居⛩️と社号標

社号標

社務所

御神木

手水舎

灯籠ん

参道

由緒

参道

御神木(御影杉)の由来

御神木 樹齢千百余年

宝物庫

漆喰の龍🐉彫刻

龍🐉

漆喰の龍🐉彫刻

参道

狛犬さん

狛犬さん

参道

神楽殿

神楽殿奉納絵

拝殿

拝殿の扁額

境内社

学問の神様

八百万の神様

縁結びの神様

土地の神様

山の神様

拝殿斜めから


拝殿横から

石の扁額


本殿

本殿の彫刻

本殿の彫刻

本殿の彫刻

振り返り
この神社は、東国征伐の帰りに日本武尊が立ち寄り、長者さんに出されたアワ餅を美味しいと言ってたくさん食べたことから「大御食神社」と称されるようになりました。
また、日本武尊から預かった草薙剣を祀り熱田神宮を創建したと言われる五郎姫(宮簀姫)をお祀りしたことから美女ヶ森といわれます。
日本武尊と、奥さんである五郎姫が、御影杉の下で仲良くアワ餅をたべている様子を想像するとほっこりします。

<鳥居>

<手水舎>

<参道と拝殿>

<狛犬>

<狛犬>

<拝殿>

<扁額>

<扁額>拝殿の脇にありました。
とても大きかったので後ろに立ってみたら、あたまが少しだけ出ました。

<本殿>三間社流造 駒ケ根市有形文化財

<二木社>

<末社殿>


<神楽殿>

<御影杉>


<由緒書>

駐車場に咲いてた矢車菊と遠くの菜の花
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