とがくしじんじゃひのみこしゃ
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戸隠神社火之御子社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年07月22日(金)
参拝:2022年6月吉日
【信濃國 古社巡り】
戸隠神社・火之御子社(ひのみこしゃ)は、長野県長野市戸隠にある、戸隠神社(※詳細は下記)を構成する5社のうちの1社。主祭神は天鈿女命、配祀神は高皇産霊命、天忍穂耳命、栲幡千千姫命。
平安時代後期の1098年の創建。戸隠神社を構成する5社のうち、他の4社が神仏混淆であった時代においても、当社は一貫して神社で、顕光寺との関係がなかった。
当社は宝光社と中社の間にあって、宝光社から戸隠道を1km登ったところにある。境内の広さは大きめの郷社といったところで、周辺には古木が立ち並び、空が抜けた境内奥の少し高いところに社殿が建っている。境内の樹齢500年を越える「夫婦杉」と「西行桜」が見どころ。
今回は、旧国幣小社である戸隠神社5社のうちの1社ということで参拝することに。参拝時は休日の午前中早めの時間で、広くはない境内にも関わらず、それなりの人数の参拝者が来ていた。
※当社の駐車場は3台分しかないため、相当朝早い時間や夕方遅い時間でない限り、宝光社または中社から歩く必要がある。
※当社には社務所・授与所はないが、御朱印は、宝光社または中社の授与所で拝受できる。ちゃんと参拝したかどうか聞かれるので要注意...(^_^;)
(※)戸隠神社(とがくし~)は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺の、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の5社からなる神社。旧社格は国幣小社。祭神は、奥社が天手力雄命(あめのたちからお)、中社が天八意思兼命(あめのやごころおもいかね)、宝光社が天表春命(あめのうわはる;中社祭神の御子神)、九頭龍社が地主神の九頭龍大神、 火之御子社が天鈿女命(あめのうずめ)。別称は「戸隠権現」、「戸隠三社」。
説によると、奥宮の創建は孝元天皇5年(紀元前210年)と言われ、九頭龍社はそれよりも古いとしている。戸隠山は、天照大神が籠っていた「天の岩戸」を天手力雄命が投げ飛ばした際の破片が飛んできて山となったと言われ、地主神である九頭龍大神が天手力男命を迎え入れたのが始まりとされる。『日本書紀』に記されている「水内の神」が戸隠神社であるとする説もある。平安時代の849年に僧・学問が奥社の地で初めて修験を始めたとされ、その後、天台密教、真言密教、神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として発展し、修験道場・戸隠十三谷三千坊として比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺とともに「三千坊三山」の1つとして全国に知られるようになった。鎌倉時代には当山(延暦寺山門派)の別当であった栗田氏が山麓の善光寺(園城寺山門派)の別当をも世襲したため、両寺は関連を深めた。戦国時代に当北信濃地域は、甲斐國・武田信玄と越後國・上杉謙信との争乱に巻き込まれ、栗田氏は分裂させられ、苦境の時期を過ごした。江戸時代に入ると、徳川家康から朱印地1000石を与えられ「戸隠山領」が成立し、同時に東叡山寛永寺の末寺となった。次第に農業神、水の神の性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。明治時代になると、神仏分離令や修験宗廃止令により廃仏毀釈運動が起き、戸隠山顕光寺は寺院を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となった。
県道36号線に面した、境内南端の<鳥居>。
階段を登ると、巨木の間に社殿が見えてくる。
階段を登り切ったところからの眺め。社殿はさらに一段高いところにある。
手水鉢の外に水が流れ出す、ワイルドな手水。
<拝殿>全景。
<拝殿>正面。
<拝殿>内部。
<拝殿>全景。
拝殿の右手、境内北東側にある<西行桜>。平安時代後期に西行法師が善光寺参詣の帰りに当社に立ち寄ったとのこと。
西行桜の位置から、境内を見渡す。境内の外周には極太巨木が林立している。
最後に<拝殿>全景。巨木に囲まれた神聖な雰囲気が良い~♪ (^▽^)/
すてき
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