やさかじんじゃ
弥栄神社のお参りの記録一覧
こちらが本務社になります。小さな神社で、狛犬も鳥居もありません。創建は一説に建久7年(1196)、源頼朝が信濃国を視察した際に、疫病除けのため京都八坂神社を勧請したといいいます。社地は安永3年(1774)に善光寺大勧進住職から寄進されたものです。以前の鎮座地はどこなのだろう?
境内社 天神社
金山彦大神
蔵造り?の社殿(本殿「) 弘化4年(1847)以前の建築と見られる覆屋。拝殿はありません。
神籬石(ひもろぎいし)神霊の降臨を願うとき、神霊の宿り坐(ま)す神聖な場、またその
【善光寺七社巡り(関連社)】
弥栄神社(やさか~)は、長野県長野市上西之門町にある神社。祭神は須佐之男命。
社伝によると、鎌倉時代初期の1196年、源頼朝が信濃国の視察の際に疫病除けのため京都・八坂神社を勧請したのが始まり。江戸時代中期の1774年、善光寺大勧進住職から社地を寄進され、現在でも善光寺との関連が深い。当社の例祭は京都の祇園祭と同様に屋台巡行が最大の行事で、戦前までは京都の八坂神社、広島の厳島神社と並び「日本三大祇園祭」に数えられていた。昭和戦後に衰退し途絶えたが、2012年に「ながの祇園祭 御祭礼屋台巡行」として復活した。
当社は、長野線・善光寺下駅の西北西800mの善光寺門前町の中にある。当社と縁が深い大勧進までは数十mの位置にある。境内自体は率直かなり小さい。このため、本社社殿も小さくコンパクト。建物形式の境内社が1社あって、これで敷地は目一杯になっている。現在では小さな神社でも、長野市の有名なお祭り「祇園祭」を仕切っていると思うと、歴史を感じ面白い。機会があればぜひ「祇園祭」自体も楽しんでみたい。
今回は、当社が善光寺七社のうちの5社(湯福神社、賀茂神社、妻科神社、柳原神社、木留神社)を兼務しており、各社の御朱印を拝受できるため参拝することに。参拝時は休日の午後で、自分帯地以外に特に参拝者はいなかった。
境内西端入口全景。南北に長い小さな境内。
入って左側(北側)に、本社<弥榮神社>の拝殿。
入って右側(南側)に、境内社<天神社>の社殿。
入って突き当りに<金山彦大神>の石碑。
<拝殿>全景。拝殿というよりは、神楽殿のような形。たくさんの赤提燈が華やかさを添えている。
拝殿後ろの<本殿>。真っ白で、蔵のような形が面白い。
本殿右側の石碑。字が読めない...(^_^;)
令和元年6月、長野市上西之門町の弥栄神社⛩️
善光寺大勧進の南側ですが、仲見世通りから2本西側の通り沿いで観光客もおらず。
建久7年(1196)、源頼朝が京都八坂神社を勧請と伝わります。
戦前までの祭礼は、京都八坂神社や広島厳島神社と並ぶ三大祇園祭と呼ばれる大祭。戦後に規模を縮小するも、平成24年(2012)から「ながの祇園祭」として、毎年屋台巡行を行っているそうです🏮
こちらで柳原、妻科、加茂、湯福と併せて五社の御朱印をいただこうと思っていたのですが・・。
自宅はご不在、電話してみたら「今日は戻れない」とのことでした😵
いつか再チャレンジしてみたいけど、長野は遠いよなぁ💨
#弥栄神社
ご祭神はスサノオの命。
#須佐之男命
スサノオの命は意外と子だくさん。僕が拝んだ神様だけでも次の通り。
八坂神社と粟田神社(共に京都市東山区)では、ヤシマジヌミの神、イタケルの神、オオトシの神、オオヤヒメの神、ツマツヒメの神、ウカノミタマの神、オオヤビコの神、スセリビメの命。全員、古事記、日本書紀、先代旧事本紀のいずれかにスサノオの命の子とある。
大将軍八神社(京都市上京区)と廣峯神社(兵庫県姫路市)では、タキリヒメの命、イチキシマヒメの命、タキツヒメの命、アメノオシホミミの命、アメノホヒの命、アマツヒコネの命、イクツヒコネの命、クマノクスビの命。古事記ではタキツヒメの命までの3柱が、日本書紀の別伝ではアメノオシホミミの命以降の5柱が、スサノオの命の子だ。
そして言わずと知れたオオクニヌシの神。僕が参拝した神社に限れば、大國魂神社(東京都府中市)や大神神社(奈良県桜井市)が代表的だろうか。古事記では遠い子孫だが、日本書紀では御子神。
葛城一言主神社(奈良県御所市)のヒトコトヌシの大神。先代旧事本紀はスサノオの尊の子とする。
松任金剣宮(石川県白山市)のツルギヒコの命。神社側はシラヤマヒメの神の御子とするが、出雲国風土記によればスサノオの命の子。
異説があったり、同一視される神様もいるが、可能性として最大19柱と会えたことになる。
長野県のおすすめ2選🎌
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