てんきゅうじ|曹洞宗
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楽しみ方典厩寺のお参りの記録一覧

日本最大の閻魔大王像を拝観に長野遠征。
典厩寺は、第4次川中島の戦い(1561年)で戦死した武田信玄の弟・武田典厩信繁(のぶしげ)の菩提寺。閻魔像は川中島合戦の300年を記念して造られた。 後方の壁に四天王、天井には三十三観音像が描かれている。
境内には川中島合戦記念館も併設。武田家縁の品々が展示されています。



閻魔堂

閻魔大王坐像

閻魔大王坐像


記念館

川中島古戦場公園のすぐ近くに、武田信玄の弟、武田信繁公の墓所があるお寺があると知り、次はここに行ってみることにしました。
もし信繁公が川中島で討死にせず生きていたら武田家の行く末が変わっていたと言われ、敵方の上杉謙信からもその死を惜しまれたという智勇兼備の将。
ここには真田信繁(幸村)の供養塔も並べて建てられており「二人の信繁に会える寺」と呼ばれてるそうですが、この幸村公の本名 信繁も武田信繁にあやかって付けられたそうです。
寺号の「典厩」というのは、信繁公の官職 佐馬介の唐名に由来するとのこと。
拝観料(200円)が必要なのですが、受付に誰もいなかったので留守かと危惧したのですが、庫裏に声を掛けたら幸い御住職在宅。
御朱印をお願いしたところ「じゃあ受付で書くから」と移動。
・・・実は入る時には気付かなかったのだけど、戻ってみたら受付にシッカリと「御朱印休止中」という貼り紙があった(^^;
後程ネットで調べたらコロナ対策で休止中だったようなんですが、もう時期的に大丈夫だろうと判断されたのか、ともあれ快く御朱印を書いていただけました☆
書いてもらってる途中「あ・・・!( ; ゚Д゚)」と御住職の声が微かに聞こえた。
ん?なんだ?と思ったら「ゴメン、ちょっと間違っちゃった♪テヘペロ」と、ご覧のように軍配印が2つ押してありました。
どうも印に付けてあった上方向を示すしるし自体が思いっきりズレており、普通に押したつもりがこうなったらしいwww
まぁ善光寺大勧進のと違い決定的な間違いではなく、むしろ二度押してもらって得した気分だったので、深くお礼を述べてお寺を後にしましたw

なんと閻魔大王の御朱印です!( ; ゚Д゚)
軍配印が二つ押されてますが、これについては本文にてw

お寺の外にシャチホコまで付いた立派な六地蔵堂

山門

拝観料が必要
受付に誰もいなかったので、置いてあったお皿に200円入れてきました(^^;

ここには珍しい閻魔大王の大仏があります

でかっ!!( ; ロ)゚ ゚
閻魔像としては日本一、おそらく東洋でも一番とのこと
変化観音の天井絵も見事

我が家の仏壇にある観音様を探してみました
まずは水月観音

白衣観音

合掌観音

閻魔大王の前にあるのは、印相を見ると阿弥陀如来かな?

左の方には現代的な地獄絵図

ちょっと見いってしまいましたこの地獄絵図(゜゜;)

漫画チックなだけに却って無邪気な残酷さがあるかも((( ;゚Д゚)))

作者は・・・西川隆也?
ググってみたけど情報出てきませんでした(西山、西田でもヒットせず)

ファンタジーアート風の仏画もあり
こちらの作者は団治? この人も情報出てこず( ´・ω・`)

武田信繁の首清めの井戸
このお寺に葬られてるのは信繁公の胴体で、首は小諸の首塚に葬られてるそうです

ボケ封じの石
なで回させてもらいましたw

座禅石

ほう、やってみるか(゚∀゚)

まず干支に触って・・・

・・・って、カエルが二匹しか見当たらないんすけど(^^;

懐古の碑

信玄の躑躅ヶ崎館と謙信の春日山城、両方の城石がありました

水子地蔵
全く同じ地蔵が並べられてる姿が圧巻( ; ゚Д゚)


武田信繁公の墓
右の丸いのが真田信繁公の供養塔と思われます

本堂
毘・龍の旗と風林火山の旗あり

ウサギとカメw

昭和四十四年の「天と地と」つーと、へーちゃんの謙信と高橋幸治の信玄・・・さすがに見たことねーや(^^;

実はこの四十四年版「天と地と」
うちの地元の佐野昌綱、宗綱親子が出てくる唯一の大河なので一度は見てみたいんすけどね
謙信公扱った時代劇でも関東出兵はカオス過ぎるのか、小田原城包囲戦以外はいつも華麗にスルーされるのよね

資料館あり
信繁公の刀とか結構充実してましたが、電気が点いてなくて暗くて良く見えなかった(^^;

皇太子時代の昭和天皇お手植えの松

武田信玄の弟で川中島の戦いで戦死した武田典厩信繁の菩提寺、典厩寺にて陣中観世音と閻魔大王の御朱印を頂きました。
川中島の戦いで戦死した武田典厩信繁の菩提寺でそこから典厩寺と言う名前になっています。
典厩寺の閻魔堂には閻魔大王様がいらっしゃいます。
閻魔大王はとても大きくて迫力があります。
典厩寺の本堂には武田信玄の風林火山の旗と上杉謙信の毘の旗があり、境内には川中島の戦いの博物館もあります。
川中島の戦いで討ち死にした武田典厩信繁のお墓があり真田信之の命により建立されました。
ちなみに真田幸村(信繁)はこの武田典厩信繁から取ったとも言われています。
#典厩寺
#長野市
#長野県
#御朱印

陣中観世音の御朱印

閻魔大王の御朱印

山門

閻魔堂

閻魔大王

本堂

武田典厩信繁のお墓

長野ICから車で5分。
上杉謙信と武田信玄の第4次川中島合戦の地。その近くに建つ曹洞宗の寺院です。
正式名 松操山典厩寺
旧称 瑠璃光山鶴巣寺(かくそうじ)1500年頃
山号 松操山
宗旨 禅宗
御本尊 【薬師如来尊】
天文22年〜永禄7年(1553年-1564年)。約12年に及ぶ、北信濃の支配権を巡って争われた計5回の戦の中で、最大の激闘と言われるその地。(以前投稿した八幡神社にも写真あり)
何故この話を出したかと言うと、
典厩寺には、武田信玄公の同母弟 武将武田信繁公を供養した御寺さんです。
この川中島の戦いでの戦死者は、
🐅武田軍戦力20000人⇒
武田信繁(同母弟)
諸角虎光(武将。甲斐の國武田氏の譜代家臣・豊後守)
山本勘助(武将。武田の五名臣の一人・武田二十四将に数えられる伝説的な軍師)他重臣幾名。
及び約四千人の兵が死傷。
🐉上杉軍18000人➡︎
戦には13000人が参戦。5000人は善光寺後詰⇒
約三千人の兵が死傷(主要重臣に討死は無し)
Wikipediaにて。
武田信繁は、このお寺を典厩本陣として出陣したが激戦の末、37歳で討死。その後、この鶴巣寺に埋葬されました。
合戦から60年後、信濃國初代真田藩主(海津城=現松代城)、真田信之公(真田幸村の兄)が、信繁(真田幸村)の官職「左馬助(さまのすけ)の唐名〝典厩〝から、寺号を典厩寺と改めて菩提を弔った。真田藩主の武家寺として発展したとの事。
因みに、真田信繁(のちの幸村)の名前は、川中島合戦に武田軍として参戦した真田昌幸公が、武田信繁公の知性・名将に心酔して、次男に真田信繁と名付けた。

山門です。三代 真田幸道藩主の御霊屋の門を移築したものです。


閻魔堂です。
この建物の中には閻魔大王が...

閻魔大王が...

観音菩薩尊像と閻魔大王像
御姿に圧倒と畏怖を覚えます。
日本一の大きさとの事です!
8代 真田幸貫藩主の発願により川中島合戦の戦死者6,000〜8,000余名を供養されました。
天井に三十三身観音菩薩、正面の壁に四天王
(持国天.増長天.広目天.多聞天)が描かれています。

本堂です。
左に上杉謙信公が信仰した毘沙門天の 毘 と、恐らく 龍🐉
右に武田信玄公の【風林火山】

川中島合戦場記念館です。
中には、武田氏に関する書物.家系図.信仰していた不動尊像.武器.籠や、山本勘助に関する書物等(寺宝60余点)。
とても興味深く見る事が出来ます!

深さ4mとの事です。
上杉軍が取った副武将の首を、武田軍が取り返す。取り返す為に、更に敵に斬りかかる。
相手も取られまいと太刀打ちが始まる。
正気の沙汰ではいられない
この井戸を眺めながら、
取り返した首を清める兵の心理に想いを馳せました。

座禅石

武田軍・上杉軍両雄一騎討ちの碑
以前投稿した八幡神社に建てられている上杉謙信が武田信玄に斬りかかる銅像は、この碑が原画となります。



武田典厩信繁の墓


合戦で戦死した幾多の命
慰霊碑です。


お若い僧侶の方で、とても物腰の柔らかい方でした。

地面に付く程の枝垂れ桜
お花見を兼ねてお参りしてきました。
川中島の戦いで討死した武田信玄の弟信繫公のお墓があって、枝垂桜の名所でもあります。
境内を覆いつくすような枝垂桜、日本一大きいという閻魔大王像に身が引き締まる思いでした。


閻魔大王像

本堂
川中島の戦いの戦死者を弔い供養したお寺なので『毘龍』と『風林火山』の幟が飾ってます。

閻魔堂

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