てんきゅうじ|曹洞宗
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楽しみ方典厩寺のお参りの記録一覧
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川中島古戦場公園のすぐ近くに、武田信玄の弟、武田信繁公の墓所があるお寺があると知り、次はここに行ってみることにしました。
もし信繁公が川中島で討死にせず生きていたら武田家の行く末が変わっていたと言われ、敵方の上杉謙信からもその死を惜しまれたという智勇兼備の将。
ここには真田信繁(幸村)の供養塔も並べて建てられており「二人の信繁に会える寺」と呼ばれてるそうですが、この幸村公の本名 信繁も武田信繁にあやかって付けられたそうです。
寺号の「典厩」というのは、信繁公の官職 佐馬介の唐名に由来するとのこと。
拝観料(200円)が必要なのですが、受付に誰もいなかったので留守かと危惧したのですが、庫裏に声を掛けたら幸い御住職在宅。
御朱印をお願いしたところ「じゃあ受付で書くから」と移動。
・・・実は入る時には気付かなかったのだけど、戻ってみたら受付にシッカリと「御朱印休止中」という貼り紙があった(^^;
後程ネットで調べたらコロナ対策で休止中だったようなんですが、もう時期的に大丈夫だろうと判断されたのか、ともあれ快く御朱印を書いていただけました☆
書いてもらってる途中「あ・・・!( ; ゚Д゚)」と御住職の声が微かに聞こえた。
ん?なんだ?と思ったら「ゴメン、ちょっと間違っちゃった♪テヘペロ」と、ご覧のように軍配印が2つ押してありました。
どうも印に付けてあった上方向を示すしるし自体が思いっきりズレており、普通に押したつもりがこうなったらしいwww
まぁ善光寺大勧進のと違い決定的な間違いではなく、むしろ二度押してもらって得した気分だったので、深くお礼を述べてお寺を後にしましたw

武田信玄の弟で川中島の戦いで戦死した武田典厩信繁の菩提寺、典厩寺にて陣中観世音と閻魔大王の御朱印を頂きました。
川中島の戦いで戦死した武田典厩信繁の菩提寺でそこから典厩寺と言う名前になっています。
典厩寺の閻魔堂には閻魔大王様がいらっしゃいます。
閻魔大王はとても大きくて迫力があります。
典厩寺の本堂には武田信玄の風林火山の旗と上杉謙信の毘の旗があり、境内には川中島の戦いの博物館もあります。
川中島の戦いで討ち死にした武田典厩信繁のお墓があり真田信之の命により建立されました。
ちなみに真田幸村(信繁)はこの武田典厩信繁から取ったとも言われています。
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長野ICから車で5分。
上杉謙信と武田信玄の第4次川中島合戦の地。その近くに建つ曹洞宗の寺院です。
正式名 松操山典厩寺
旧称 瑠璃光山鶴巣寺(かくそうじ)1500年頃
山号 松操山
宗旨 禅宗
御本尊 【薬師如来尊】
天文22年〜永禄7年(1553年-1564年)。約12年に及ぶ、北信濃の支配権を巡って争われた計5回の戦の中で、最大の激闘と言われるその地。(以前投稿した八幡神社にも写真あり)
何故この話を出したかと言うと、
典厩寺には、武田信玄公の同母弟 武将武田信繁公を供養した御寺さんです。
この川中島の戦いでの戦死者は、
🐅武田軍戦力20000人⇒
武田信繁(同母弟)
諸角虎光(武将。甲斐の國武田氏の譜代家臣・豊後守)
山本勘助(武将。武田の五名臣の一人・武田二十四将に数えられる伝説的な軍師)他重臣幾名。
及び約四千人の兵が死傷。
🐉上杉軍18000人➡︎
戦には13000人が参戦。5000人は善光寺後詰⇒
約三千人の兵が死傷(主要重臣に討死は無し)
Wikipediaにて。
武田信繁は、このお寺を典厩本陣として出陣したが激戦の末、37歳で討死。その後、この鶴巣寺に埋葬されました。
合戦から60年後、信濃國初代真田藩主(海津城=現松代城)、真田信之公(真田幸村の兄)が、信繁(真田幸村)の官職「左馬助(さまのすけ)の唐名〝典厩〝から、寺号を典厩寺と改めて菩提を弔った。真田藩主の武家寺として発展したとの事。
因みに、真田信繁(のちの幸村)の名前は、川中島合戦に武田軍として参戦した真田昌幸公が、武田信繁公の知性・名将に心酔して、次男に真田信繁と名付けた。

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