てんきゅうじ|曹洞宗
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典厩寺の御朱印・御朱印帳
| 限定 | - | ||
|---|---|---|---|
| 御朱印帳 | - | ありません | |
| 電話番号 | 026-292-3335 | ||
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長野ICから車で5分。
上杉謙信と武田信玄の第4次川中島合戦の地。その近くに建つ曹洞宗の寺院です。
正式名 松操山典厩寺
旧称 瑠璃光山鶴巣寺(かくそうじ)1500年頃
山号 松操山
宗旨 禅宗
御本尊 【薬師如来尊】
天文22年〜永禄7年(1553年-1564年)。約12年に及ぶ、北信濃の支配権を巡って争われた計5回の戦の中で、最大の激闘と言われるその地。(以前投稿した八幡神社にも写真あり)
何故この話を出したかと言うと、
典厩寺には、武田信玄公の同母弟 武将武田信繁公を供養した御寺さんです。
この川中島の戦いでの戦死者は、
🐅武田軍戦力20000人⇒
武田信繁(同母弟)
諸角虎光(武将。甲斐の國武田氏の譜代家臣・豊後守)
山本勘助(武将。武田の五名臣の一人・武田二十四将に数えられる伝説的な軍師)他重臣幾名。
及び約四千人の兵が死傷。
🐉上杉軍18000人➡︎
戦には13000人が参戦。5000人は善光寺後詰⇒
約三千人の兵が死傷(主要重臣に討死は無し)
Wikipediaにて。
武田信繁は、このお寺を典厩本陣として出陣したが激戦の末、37歳で討死。その後、この鶴巣寺に埋葬されました。
合戦から60年後、信濃國初代真田藩主(海津城=現松代城)、真田信之公(真田幸村の兄)が、信繁(真田幸村)の官職「左馬助(さまのすけ)の唐名〝典厩〝から、寺号を典厩寺と改めて菩提を弔った。真田藩主の武家寺として発展したとの事。
因みに、真田信繁(のちの幸村)の名前は、川中島合戦に武田軍として参戦した真田昌幸公が、武田信繁公の知性・名将に心酔して、次男に真田信繁と名付けた。

山門です。三代 真田幸道藩主の御霊屋の門を移築したものです。


閻魔堂です。
この建物の中には閻魔大王が...

閻魔大王が...

観音菩薩尊像と閻魔大王像
御姿に圧倒と畏怖を覚えます。
日本一の大きさとの事です!
8代 真田幸貫藩主の発願により川中島合戦の戦死者6,000〜8,000余名を供養されました。
天井に三十三身観音菩薩、正面の壁に四天王
(持国天.増長天.広目天.多聞天)が描かれています。

本堂です。
左に上杉謙信公が信仰した毘沙門天の 毘 と、恐らく 龍🐉
右に武田信玄公の【風林火山】

川中島合戦場記念館です。
中には、武田氏に関する書物.家系図.信仰していた不動尊像.武器.籠や、山本勘助に関する書物等(寺宝60余点)。
とても興味深く見る事が出来ます!

深さ4mとの事です。
上杉軍が取った副武将の首を、武田軍が取り返す。取り返す為に、更に敵に斬りかかる。
相手も取られまいと太刀打ちが始まる。
正気の沙汰ではいられない
この井戸を眺めながら、
取り返した首を清める兵の心理に想いを馳せました。

座禅石

武田軍・上杉軍両雄一騎討ちの碑
以前投稿した八幡神社に建てられている上杉謙信が武田信玄に斬りかかる銅像は、この碑が原画となります。



武田典厩信繁の墓


合戦で戦死した幾多の命
慰霊碑です。


お若い僧侶の方で、とても物腰の柔らかい方でした。

地面に付く程の枝垂れ桜
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