都萬神社のお参りの記録一覧
都萬神社の更衣祭
早朝参拝後に木花咲耶姫の御陵墓とされている西都原の女狭穂塚を訪れ、お昼前に都萬神社を再び参拝
七夕の日、都萬神社では、コノハナサクヤヒメと天孫ニニギノミコトが逢初川で初めて出会い、長狭神(ナガサノカミ)の媒介によりお嫁入りした古事を再現する神事が行われます。室町時代以前、500年も前から続いている伝統の神事です。
御神体のコノハナサクヤヒメは嫁入りにあたり、真綿の御被衣(おかつき)をかぶり、紅や白粉で化粧を施し、婚礼衣装である真っ白い衣に着替えます。氏子さんたちから寄せられたこの衣の枚数で、その年の寒暖と豊作を占います。最後は神楽が奉納され、この日、訪れた人は15時頃までヒメのお顔を拝見することができます。
以下は都萬神社の案内を抜粋
当社の特殊神事に約五百年前より続いている更衣祭(七月七日に斎行することから七夕祭とも呼ばれる)という日本でも大変珍しいお祭りがございます。天孫瓊瓊杵尊は木花開耶姫命を妻にと思召しになられましたが、天津神と国津神との結婚とのことで、事勝国勝長狭神を仲人に立て婚姻の儀礼を行いました。そのお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりし、晴れの婚礼衣装を木花開耶姫の御神像にお着せ申し白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ花嫁姿になられる有様を生でじかに行うゆかしい神事で、この神事が我が国婚礼儀礼のハジメであると社伝にあります。当日は午後三時まで全く可愛らしい清らかな姿を御神殿正面に御遷座申し上げその間一般参拝者に拝観が許されます。この日に奉納される白衣の枚数によってその年の豊凶や天候が占われます。更衣祭前日には高鍋町の堀之内まで浜下りをして、禊を行い、古来より磐座とされる斎場に於いて神事を斎行し、明くる日の祭典に備えております。禊には神職だけでなく、氏子崇敬者をはじめ新盆を迎えられる家庭の方にも参加いただいております。都萬神社では、禊をすることにより、黒不浄の穢を祓い清める意味合いがあるとともに、心身を清めて故人の御霊をお迎えする習慣となっており、新盆を迎えるご家庭の方にご参加いただいております。さらに海岸に流れ着いている黒い石は黒不浄を清めるといわれており、藁で作った藁苞に納め、家庭に持ち帰って頂いております。それをお風呂につけて入ることにより、心身を清める禊の意味合いがあるとされており、各家庭においては御霊をお迎えする盆前にお風呂に入れて頂いたり、家のお清めに飾って頂いたりしております。
男狭穂塚はニニギノミコト、女狭穂塚はコノハナサクヤヒメの御陵であると伝えられ、古代ロマン感じる伝説が数多く残されています。
「男狭穂塚・女狭穂塚」について
男狭穂塚と女狭穂塚は、1895年(明治28年12月)に陵墓参考地に指定され、天皇家の御陵墓として宮内庁により管理されています。そのため特別史跡「西都原古墳群」の指定範囲には入っていません。男狭穂塚は、墳長154.6m、高さ19.1mの国内最大の帆立貝形古墳ともいわれており、二重の周溝をもっています。また女狭穂塚は、墳長176.3m、後円部長96.1m、高さ14.6mの前方後円墳で九州最大規模を誇っています。
毎年11月の「古墳まつり」2日目の日曜日には年に一度の特別参拝が行われておいます。
朝6時に参拝
限定20枚の御朱印を求めて早い時間から参拝しました。7月7日は更衣祭という特殊神事が行われる日で、参加者が来る前に静かなうちに参拝を終わらせました。
都萬(つま)神社は、木花咲耶姫を祀る神社。
瓊瓊杵命が姫を見初めたことから、縁結びの神として、そして3つ子を無事出産したことから安産の神としても知られております。
その昔、都農神社、霧島神社、高千穂神社と並ぶ、日向式内四座の一社で、続日本後記に「承和4年(837年)日向国子湯郡妻預官社」と記されている由緒ある神社。
この神社は天孫ニニギの尊の妃、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を祀り、都萬神社または妻萬宮と申します。
祭神 木花咲耶姫はオオヤマズミの命の姫君でニニギの尊との御結婚にはコトカツクニカツナガサの神が媒酌をとりもち、日本
最初の正式な華燭の式典を挙げられました。故に古来からこの結婚の喜びにあやかりたいと崇敬の厚いお宮であります。
祭神 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)は青島神社のヒコホホデミの尊の母君鵜戸神宮のウガヤフキアエズの尊の祖母君にあたり、宮崎神宮の神武天皇の曽祖母で日本民族の彌栄をもたらせた国母神でありますから、女性の守護神お産の神と敬い家内安全の祈願に参拝の多い神社であります。
西都原御陵参考地の正面にある女狭穂塚はこの神社の祭神 木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の御陵とつたえられています。
都萬神社社務所
【日向國 式内社巡り】
都萬神社(つま~)は、宮崎県西都市大字妻にある神社。式内社で、日向国総社論社、日向國二之宮論社。旧社格は県社。祭神は木花開耶姫命。
創建は不詳。当社周辺には全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定値、日向国府跡などがあり、日向國の中心地であったと考えられている。また、近くには木花開耶姫命と瓊瓊杵尊が新婚生活を送ったという伝承地もある。国史の初見は『続日本後紀』の837年条に官社となった旨の記載がある。927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「日向國 児湯郡 都萬神社 小」に比定されている。このころ「五社明神」という別称があり、近くに日向国府があったことから、日向国の総社の機能があったとする説があり、また都農神社に次ぐ二之宮として崇敬されたという説がある。室町時代以降は、当地領主の伊東氏から篤く庇護された。以後江戸時代にかけては、日向國の式内社4社の中では実質的に最も有力な神社であったとされる。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR日豊本線・日向新富駅の北西11kmの市街地、住宅街の中の平地にある。南北に200m以上、東西に100mほどの境内は公園のような雰囲気で広々としている。境内東側を流れる川を渡って境内に入ると古巨木が立ち並び、短めの参道を進むと一段高い場所にある神域に入る。大きな社殿の周りには境内社などが集まっている造り。社務所などは綺麗で新しいが、日本清酒発祥の地であったり、千年楠の洞洞木があったりと、古社らしさを十分に満喫できる。
今回は、日向國の式内社、日向国総社論社、日向國二之宮論社、宮崎県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は平日の午後で、自分たち以外にも一般参拝者がいたほか、大人の引率でやってきた子供の団体が参拝していた。
境内東方の住宅街の中にある、巨大な<一の鳥居>。
境内入口全景。実際の川に架かる<神橋>を渡って境内に入る。
神橋を渡ったところからの眺め。正面の一段高いところに社殿がある。
参道右手にある、小さめの真っ赤な鳥居。扁額や表札はなし。
鳥居の後ろには立派な巨木が2本。巨木が御神体なのかな?(。´・ω・)?
巨木の裏側に廻ると、小さく真っ赤な社殿が。<狛狐>がいるので稲荷神社ですね。(^_^;)
参道の左手(南側)、少し離れたところにある<土俵>。参道と土俵の間のエリアは駐車場。
いよいよ階段を登って神域に入る。
階段を登り切ったところにある<二の鳥居>。
二の鳥居の左側にある<狛犬>。まん丸おめめと、反り立った尻尾が独特。
二の鳥居の右側にある<狛犬>。こちらの方が損傷が少なく原型が分かりやすい。
参道右手、狛犬の後ろにある<手水舎>。
<拝殿>全景。翼殿付き。サイズ、色合いともに重厚感がある。
<拝殿>正面。入口右側には「日本一の大太刀」と書かれた表札が掛かる。
拝殿後ろの<本殿>。落ち着いた暗い色合いの拝殿に対して、本殿はかなり色鮮やか。
拝殿に向かって左後方にある<授与所>。御朱印はこちら。
拝殿に向かって右後ろにある<日本清酒発祥の地>の碑と<千年楠の洞洞木>。
拝殿に向かって右手少し離れたところにある境内社の鳥居。
背後には<霧島神社>(左)と<四所神社>(右)がある。
上の境内社の左側にある<大山祇神社>。
斜めから<社殿>全景。
社殿の南方50mほどの、池のほとりに建つ<祇園神社>。
最後に社殿を見てから帰ろうとすると、小学校低学年と思しき集団が参拝にやって来た。(^▽^)/
700投稿目は木花咲耶姫命にご縁を感じてる自分には特別な場所である宮崎県の都萬神社へ✈️
毎年7月7日に更衣祭といわれる特殊神事が行われるとのことで更衣祭当日7月7日に参拝してきました。
1年間御身像に着装していた着物で作ったという有難いお守りと更衣祭先着限定20枚と言われている木花咲耶姫様の御神像の写真の入った幻の御朱印も一緒に拝受する事ができました。
お守りはあまりにも神々しくて身に付ける事も出来ず妻の写真の横に置かせていただきました😅
家宝にします😆
海外からテレビ局の取材も来ており、厳かな雰囲気の中にも木花咲耶姫の暖かさに満ちた場所でした。今度は兼務社も含めてゆっくり訪れてみたいと思います。
宮崎県の中央部・西都市にある都萬神社は、創建は定かではありませんが、「続日本後記」の中で、仁明天皇の時代、承和(じょうわ)4年(西暦834年)8月の条に記載されているほど、古く由緒ある神社のひとつです。
日本で最も古いと言われる「古事記」の中で、邇邇芸命と木花開耶姫命が、日本初の「結婚式(婚礼儀式)」を行った場所で、嫁入りをそのまま再現する神事が、毎年7月7日に行われている「更衣祭(こういさい)」です。木花開耶姫命の御神像に婚礼衣装をお着せし、お化粧や角隠しで花嫁姿になって頂くものです。このことから、「恋愛がうまくいく!良縁にめぐりあえる!」神社としても有名で、多くの女性が訪れています。
国府に赴任した国司は、国内の神社に巡拝するのが習わしでしたが、それを簡略化するために、各神社に祀った祭神を1ヶ所に集め、国府近くに築かれたのが総社です。
その総社だったと推測されているのが都萬神社。
近くに西都原古墳群があることからも、この地が古代から拓かれ、律令時代の始まりとともに日向国の中心地だったことがよくわかります。
しかも西都原古墳群のひとつ、女狭穂塚(めさほづか)は、木花開耶姫命陵墓として宮内庁陵墓参考地となっています。
木花開耶姫命は、現在では縁結びの神様としても有名。
7月7日に斎行される『更衣祭』は、神像に着付けや化粧を施し、祭神・木花開耶姫命の入内までの様子を再現する特殊神事。
当社の特殊神事に約五百年前より続いている更衣祭(七月七日に斎行することから七夕祭とも呼ばれる)という日本でも大変珍しいお祭りがございます。天孫瓊瓊杵尊は木花開耶姫命を妻にと思召しになられましたが、天津神と国津神との結婚とのことで、事勝国勝長狭神を仲人に立て婚姻の儀礼を行いました。そのお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりし、晴れの婚礼衣装を木花開耶姫の御神像にお着せ申し白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ花嫁姿になられる有様を生でじかに行うゆかしい神事で、この神事が我が国婚礼儀礼のハジメであると社伝にあります。当日は午後三時まで全く可愛らしい清らかな姿を御神殿正面に御遷座申し上げその間一般参拝者に拝観が許されます。この日に奉納される白衣の枚数によってその年の豊凶や天候が占われます。更衣祭前日には高鍋町の堀之内まで浜下りをして、禊を行い、古来より磐座とされる斎場に於いて神事を斎行し、明くる日の祭典に備えております。禊には神職だけでなく、氏子崇敬者をはじめ新盆を迎えられる家庭の方にも参加いただいております。都萬神社では、禊をすることにより、黒不浄の穢を祓い清める意味合いがあるとともに、心身を清めて故人の御霊をお迎えする習慣となっており、新盆を迎えるご家庭の方にご参加いただいております。さらに海岸に流れ着いている黒い石は黒不浄を清めるといわれており、藁で作った藁苞に納め、家庭に持ち帰って頂いております。それをお風呂につけて入ることにより、心身を清める禊の意味合いがあるとされており、各家庭においては御霊をお迎えする盆前にお風呂に入れて頂いたり、家のお清めに飾って頂いたりしております。
御神衣御守
更衣祭限定御朱印
こちらから観ると老木の姿が、大迫力となっています。
長年、幾多の災害を受けながらも、そして、幹が空洞となろうとも、今もなお青々とした葉を茂らせた、妻のクスの生命力の強さに、
パワーを貰えます
アイコンの写真の楠木です
御神像の木花咲耶姫命
キキタビで行ってみました。
木花開耶姫の物語のスタンプが押されてます。
500円
私が来ていた時には、3人来られてました。
公園が広く、駐車場が分かりにくかった。
コロナ渦の予防で消毒液が置いてました。
御朱印帳も可愛いです。
都萬(つま)神社。
日向国二之宮。
旧社格:県社。
延喜式内社日向国4座のひとつ。
御祭神は木花開耶姫命。
瓊瓊杵命が木花咲耶姫と近くにある逢初川で出会い、
「あなたを妻にしたい」と言われたことからこの地名が付いたと伝わっています。
日本で最初の結婚式をあげられた神様といわれ、
縁結び・安産・子育ての神様として知られています。
都萬神社には特殊神事に約五百年前より続いている更衣祭があります。
七月七日に行われることから七夕祭とも呼ばれ日本でも大変珍しいお祭りで、
婚礼衣装を木花開耶姫の御神像にお着せし、白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ花嫁姿になられお姿を拝観できるそうです。
ご朱印。
御社殿。
御神木の樹齢約1,200年の国指定天然記念物の大楠「妻のクス」
木花咲耶姫が3人の子供を育てるため母乳の代わりに
甘酒を造ったといわれ、日本清酒の発祥の地にもなっています。
都萬神社から2~3km離れたところにある
日本最大級の『西都原古墳群』
女狭穂塚(めさほづか 180m)は九州最大の前方後円墳で木花咲耶姫が、
男狭穂塚(おさほづか 175m)は日本最大の帆立貝形古墳で瓊瓊杵命が
眠られていると言われてます。
都萬神社とあわせてどうぞ!
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