わかみやはちまんじんじゃ
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楽しみ方若宮八幡神社のお参りの記録一覧

所在地:宮城県大崎市三本木新沼字若宮113
主祭神:誉田別尊
社 格
創 建:
由 緒
源頼朝泰衡を謀伐するとき、鎌倉鶴岡八幡宮に祈り神霊を勧請分祀するところである。畠山六郎・武田太郎をして造営のことを督せしめ、社領一万八千四百石及び水田若干を寄進し、渋谷三郎時国を剃髪せしめ名を宥全と改め以って別当とした。外に四十八坊を設け衛士数多を置き、又、これに食田を与えた。新沼をはじめ、中沢、堤根、引田、斉田、音無、坂本、蟻袋、伊賀、高柳など十ヶ村の鎮守であった。(封内記、社伝)その後天正年中に至って国内騒然戦乱相続き、同18年のころ伊達政宗東北に起り土民を誘導して探題大崎氏の居城を攻めた。このとき別当宥全の末孫法憧院永豊政宗と戦ったので、社殿僧坊悉く兵火に罹り荒廃に帰したが政宗治に就くに及んで村民その頽廃を憤り協心戮力これを再興した。後また朽損に瀕したが、寛政13年4月時の別当若宝院瑞芳並びに村吏治三郎村民と力を合せ社殿を改築した。更に宥全四十一世の孫長盛代の安政2年9月之れに修造を加えている。明治5年8月村社に列格。(社伝、社蔵文書)。大正5年10月若宮神社を現社号に改め昭和2年1月幣帛料供進社に指定された。


















【陸奥国式内百座】
所在地:宮城県大崎市三本木新沼字若宮113
主祭神:
社 格
創 建:
由 緒
第12代景行天皇(ケイコウテンノウ)の12年(83年)、第3皇子日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、東征 途中、相模(サガミ)から海を渡って上総(カズサ)に入ろうとしたが、大嵐の難に遭い荒れ狂う海で、后(キサキ)の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が、海神の怒りを鎮めんと海中に身を投じ、尊が無事に相模灘を渡れたことへに思いをいたし、慰霊の思召しにより海神である二柱の神を祀り建立された神社で、延喜式神名帳(905年)に名神小社 として登載されている延喜式内社である。宝亀11年(780年)、大納言・藤原小黒丸により、戦勝を感謝し社殿を再建立したが天正(テンショウ)年中の兵乱により若宮八幡神社とともに焼失し、以後社殿の建立が なく「敷玉森」としてその名を止めていたが、その滅失を憂い文政元年(1818年)別当第40代・渋谷秀盛が、社名と延喜を刻し石碑を建立した。現在は敷玉社本殿 に奉斎され、若宮八幡社と同時に祭祀がおこなわれている。また、敷玉早御玉神社が奉斎されてあったことが、この地に若宮八幡神社を創建奉斎される動機となったと伝えられている。所謂この地の先覚神ともいえる。明治5年(1872年)郷社に列し、明治38年(1905年)に社殿再建立の計画を願い出たが実現できなかった。昭和18年(1943年)には若宮八幡神社に合祀されてあったが歴史現在社の消滅する事を憂い、平成3年(1991年)、今上天皇御即位の佳年を機に再び分祀摂社として奉斎、光輝ある歴史を永劫に伝えることにした。







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