さえのじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方佐倍乃神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年10月16日(木) 08時54分50秒
参拝:2025年10月吉日
所在地:宮城県名取市愛島笠島字西台1-4
主祭神:猿田彦大神、天鈿女命
社 格:郷社
創 建:110年(景行天皇40年)
由 緒
由緒書によれば、当社の創建は景行天皇40年(110年)、日本武尊の東征の折に勧請されたという。例祭は、東征の時から毎年4月20日に催行されている。その他にも垂仁天皇の御代には八津峯に鎮座していたという説や、雄略天皇の御代には社殿が建立されたとも云われる。しかし、慶長7年(1602年)に当社が野火にあった際に、古来からの文献や宝物が一切焼失したため詳細は不明である。
後柏原天皇の御代、大永2年(1522年)10月23日に本殿が造営され、文禄元年(1592年)2月15日に伊達政宗により社殿の修繕が行われた。元禄13年(1701年))10月19日には伊達綱村により拝殿の修繕が行われ、祭田20石の寄進が行われるなど、民衆のみならず歴代伊達藩主からも篤く崇敬された。
享保17年(1733年)には宗源宣旨を受け、神階「正一位」を授与。往古から社名を村社「道祖神社」としていたが、明治時代初期に現在の社名である村社「佐倍乃神社」へ改称した。明治41年(1908年)11月に郷社に列格し、同43年3月には幣帛供進社に指定された。明治41年(1908年)には延喜式内社の佐具叡神社や近隣地域の神社10社を合祀した。
佐倍乃神社の祭神である猿田彦大神は、天孫降臨の際に皇御孫命である邇邇芸命を先導した神とされており、そのことから「道祖神」や「幸神(さいのかみ)」と呼ばれている。当社の社名の「佐倍乃(さえの)神社」は「幸神(さいのかみ)」の名称にちなむものである。佐倍乃神社は、主に人生や生活の道開き・交通安全の神社として崇敬を集めており、その他にも縁結び・五穀豊穣・商売繁盛・家運隆盛の御神徳があるとされている。
また、もう一柱の祭神である天鈿女命は猿田彦大神の妃神であり、天の岩戸開きのときに岩戸の前で舞を踊った神とされる。そのため、当社は音楽・芸能技芸向上の神や夫婦和合の神として信仰されており、芸能関係者が参拝に来るという。
松尾芭蕉も曽良とともに当社と実方中将の墓を目指して旧暦5月4日(現在の6月20日頃)やってきた。しかし、五月雨にぬかるんだ道は、長旅により疲労した二人の体には重いものがあった。そのため二人は佐倍乃神社と実方中将の墓への参拝を断念し「笠嶋は いづこさ月の ぬかり道」と一句詠み、神社や中将の墓のある当たりを眺めるにとどまったという。東北本線館腰駅から南西に450メートルほどの川沿いの場所には「道祖神路の道標」と呼ばれる石標がある。
(Wikipediaより)
主祭神:猿田彦大神、天鈿女命
社 格:郷社
創 建:110年(景行天皇40年)
由 緒
由緒書によれば、当社の創建は景行天皇40年(110年)、日本武尊の東征の折に勧請されたという。例祭は、東征の時から毎年4月20日に催行されている。その他にも垂仁天皇の御代には八津峯に鎮座していたという説や、雄略天皇の御代には社殿が建立されたとも云われる。しかし、慶長7年(1602年)に当社が野火にあった際に、古来からの文献や宝物が一切焼失したため詳細は不明である。
後柏原天皇の御代、大永2年(1522年)10月23日に本殿が造営され、文禄元年(1592年)2月15日に伊達政宗により社殿の修繕が行われた。元禄13年(1701年))10月19日には伊達綱村により拝殿の修繕が行われ、祭田20石の寄進が行われるなど、民衆のみならず歴代伊達藩主からも篤く崇敬された。
享保17年(1733年)には宗源宣旨を受け、神階「正一位」を授与。往古から社名を村社「道祖神社」としていたが、明治時代初期に現在の社名である村社「佐倍乃神社」へ改称した。明治41年(1908年)11月に郷社に列格し、同43年3月には幣帛供進社に指定された。明治41年(1908年)には延喜式内社の佐具叡神社や近隣地域の神社10社を合祀した。
佐倍乃神社の祭神である猿田彦大神は、天孫降臨の際に皇御孫命である邇邇芸命を先導した神とされており、そのことから「道祖神」や「幸神(さいのかみ)」と呼ばれている。当社の社名の「佐倍乃(さえの)神社」は「幸神(さいのかみ)」の名称にちなむものである。佐倍乃神社は、主に人生や生活の道開き・交通安全の神社として崇敬を集めており、その他にも縁結び・五穀豊穣・商売繁盛・家運隆盛の御神徳があるとされている。
また、もう一柱の祭神である天鈿女命は猿田彦大神の妃神であり、天の岩戸開きのときに岩戸の前で舞を踊った神とされる。そのため、当社は音楽・芸能技芸向上の神や夫婦和合の神として信仰されており、芸能関係者が参拝に来るという。
松尾芭蕉も曽良とともに当社と実方中将の墓を目指して旧暦5月4日(現在の6月20日頃)やってきた。しかし、五月雨にぬかるんだ道は、長旅により疲労した二人の体には重いものがあった。そのため二人は佐倍乃神社と実方中将の墓への参拝を断念し「笠嶋は いづこさ月の ぬかり道」と一句詠み、神社や中将の墓のある当たりを眺めるにとどまったという。東北本線館腰駅から南西に450メートルほどの川沿いの場所には「道祖神路の道標」と呼ばれる石標がある。
(Wikipediaより)
すてき
投稿者のプロフィール

Kou1136投稿
2011年東日本大震災を切っ掛けに寺社参拝を始めました。これまで900余の寺社を参拝させていただき、拝受した御朱印も気付けば1300枚超。日本史にも関心があり、寺社参拝がライフワークの一部になり...もっと読む
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。





















