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りょうこうじ|臨済宗東福寺派天澤山

龍光寺の御由緒・歴史
三重県 鈴鹿市駅

ご本尊釈迦如来
ご由緒

室町時代、応永29年(1433)11月29日の深夜、伊勢湾の方より奇異なる霊光が飛び來り当山の旧跡地西条の沢山に至って消えること15日間に及んだといわれます。時の神戸(かんべ)城主は神戸家2代実重で、伊勢国司北畠満雅が称光天皇に奉上し帝これを占わしめると、東海龍王の瑞光であるから此地へ禅寺を建立して国家安泰を祈るべしとのことで、天皇は満雅を開基とし、神戸実重を普請奉行として天澤山龍光寺を創建して、寺名も天澤山龍光寺と名付けられました。旧記には「諸堂塔頭六十四院軒を並べ碧瓦朱欄の旭日に輝きいと荘厳なりき云々」とあり、帝は学徳兼備の誉れ高き悦叟大欣禅師(写真)に紫衣を与え、河内の光通寺に使者をたて禅師を開山に迎え、紫衣を許す綸旨は江戸時代幕府がその権利を朝廷から取り上げる(紫衣事件)まで天皇から当山歴代住持に与えられました。戦国時代の波を受け天文年中堂宇悉く烏有に帰しましたが、後奈良天皇は再興を命じ紫衣を許したうえその寺格を南禅寺に準ずると位置づけられました。 当寺には現在も後奈良天皇、正親町天皇(二通)、後陽成天皇らの御綸旨のほか太閤秀吉(三通)以来徳川歴代将軍の朱印状が保存され、神戸城主本多忠統始め代々城主の寄進状、末寺文書、記録は200点に及びます。

神戸(かんべ)家には織田信長の三男信孝も養子に入りましたが、天文の頃西条の地から今の神戸の地に龍光寺とともに神戸城も移り、現在神戸公園の神戸城趾天守台の石垣(県文化財指定)は信孝が築いたもので当寺の南方200mのところに当時の面影を残します。当寺の歴代の住職は朝廷への参内や将軍への定例独礼を七年に一度と定められ、将軍家の慶弔、住職交替時には朱印籠を行列に加え江戸へ赴かねばなりませんでした。朝廷や幕府の記録にも当山の綸旨の件、お茶や巻数、綿など献上の件などが記されていて興味深いところです(「御所お湯殿日記」他)。

中興24代虎伯大宣禅師は家光に「碧厳録」を講じ召されて江戸にも同じ天澤山龍光寺を建立、徳川光圀の命を受けて朝鮮通信使を迎えるための公文書作成に功大きく、光圀は宗家(対馬)・小笠原家・京極家・藤堂家に寺を拡充させた。後に虎伯禪寺は豊橋に万年山臨済寺、その他十ヶ寺に余る伊勢地方の寺の開山となりました。
天明年間、36代大拙道寛禅師始め当寺より東福寺に住した和尚も多く、世に古刹霊場といわれる寺は少なくはありませんが地方に在って、開山以来長い時代の変遷を経てなお、その伝統と由緒の正しさを連綿と伝える寺は少なく、当地方の文化・歴史面でも大きく貢献してきたことが伺われます。 
こうした格別の由緒により龍光寺は臨済宗東福寺派の「別格地首班」の寺格を有しています。

創建:応永30年(1423)
   天文23年(1554) 神戸城の移築と共に現在地に移転
開山:悦叟大欣禅師(東福寺聖一国師法系)
開基:北畠満雅候(伊勢国司北畠家第3代当主)
鎮守:荼枳尼天(伊勢豊川稲荷)

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