つかんのん
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
津観音のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年05月14日(金)
参拝:2021年4月吉日
津観音は、三重県津市にある真言宗醍醐派の寺院。正式名は「恵日山(えにちざん)観音寺大宝院」。本尊は聖観音菩薩。東京の浅草観音、名古屋の大須観音と並んで「日本三大観音」の一つとされる。三重県で、本山専修寺に次いで2番目に参拝者数が多い寺院。
近世の地誌『勢陽雑記』等の伝承によると、創建は奈良時代の初め709年に伊勢麻生が浦の漁夫の網に聖観音立像が掛かり、これを本尊として開山したのが始まり。現存最古の明確な文献には1430年に将軍足利義教が朝命を奉じ当寺境内に三重塔と恵音院を建立したとある。当時の観音寺は津市柳山にあって伽藍を形成していたが、1498年の大地震で全地海水に没し、現在地に移転した。
戦国時代には織田信長の弟・信包が津藩主となり、観音寺塔頭・六大院ほか三ケ寺を観音寺境内に移し再興。同時に鈴鹿市国府の阿弥陀如来と両脇侍を六大院に移して本尊とした。六大院院家・法印長堯が豊臣秀吉の手習学問の師範であったことから六大院は秀吉から朱印地を受けている。ただし、1600年、石田三成軍が津城を攻めた兵火により全山焼失した。
江戸期に入ると、藤堂高虎が伊予国から転封され津藩主となり、津城の鬼門にあった観音寺を再建。1613年の観音堂再建以降、梵鐘、鐘楼堂、仁王門、阿弥陀堂、護摩堂が再建された。江戸期に伊勢神宮参拝が流行すると、参拝者が道中観音寺に立ち寄って、伊勢神宮天照大神の本地物である「国府の阿弥陀如来」を参拝するようになり、「津に参らねば片参り」と言われるまでになった。
明治時代になると、長年の津藩主や江戸幕府からの保護が無くなり、庶民の祈願所という本来の姿に戻り、津市の発展に伴って、信仰の中心、娯楽に中心として市民に親しまれた。しかし、1945年の米軍による津大空襲により伽藍をすべて焼失。戦後1949年から1968年にかけて再建された。
当寺は、JR紀勢本線・津駅、近鉄名古屋線・津駅の南方2kmに位置していて、公共交通機関だと国道23号線上にある京口立町バス停から徒歩数分。周りはほぼ住宅街で、近くに非常に古い繁華街のような建物がいくつかある。境内は街中の寺院らしくさほど広くはないが、大きな本堂に五重塔があって、地元で信仰される街の中心寺といった感じ。
日本三大○○に弱い自分としては、日本三大観音ということで以前からチェックしていたお寺。ようやく機会を得て参拝することに。参拝時は平日の午前早めの時間で、地元風のご老人数名が参拝に来ていた。
※旅行サイト<じゃらん>において、津市で1番人気がある(口コミ数が多い)寺社仏閣。
近世の地誌『勢陽雑記』等の伝承によると、創建は奈良時代の初め709年に伊勢麻生が浦の漁夫の網に聖観音立像が掛かり、これを本尊として開山したのが始まり。現存最古の明確な文献には1430年に将軍足利義教が朝命を奉じ当寺境内に三重塔と恵音院を建立したとある。当時の観音寺は津市柳山にあって伽藍を形成していたが、1498年の大地震で全地海水に没し、現在地に移転した。
戦国時代には織田信長の弟・信包が津藩主となり、観音寺塔頭・六大院ほか三ケ寺を観音寺境内に移し再興。同時に鈴鹿市国府の阿弥陀如来と両脇侍を六大院に移して本尊とした。六大院院家・法印長堯が豊臣秀吉の手習学問の師範であったことから六大院は秀吉から朱印地を受けている。ただし、1600年、石田三成軍が津城を攻めた兵火により全山焼失した。
江戸期に入ると、藤堂高虎が伊予国から転封され津藩主となり、津城の鬼門にあった観音寺を再建。1613年の観音堂再建以降、梵鐘、鐘楼堂、仁王門、阿弥陀堂、護摩堂が再建された。江戸期に伊勢神宮参拝が流行すると、参拝者が道中観音寺に立ち寄って、伊勢神宮天照大神の本地物である「国府の阿弥陀如来」を参拝するようになり、「津に参らねば片参り」と言われるまでになった。
明治時代になると、長年の津藩主や江戸幕府からの保護が無くなり、庶民の祈願所という本来の姿に戻り、津市の発展に伴って、信仰の中心、娯楽に中心として市民に親しまれた。しかし、1945年の米軍による津大空襲により伽藍をすべて焼失。戦後1949年から1968年にかけて再建された。
当寺は、JR紀勢本線・津駅、近鉄名古屋線・津駅の南方2kmに位置していて、公共交通機関だと国道23号線上にある京口立町バス停から徒歩数分。周りはほぼ住宅街で、近くに非常に古い繁華街のような建物がいくつかある。境内は街中の寺院らしくさほど広くはないが、大きな本堂に五重塔があって、地元で信仰される街の中心寺といった感じ。
日本三大○○に弱い自分としては、日本三大観音ということで以前からチェックしていたお寺。ようやく機会を得て参拝することに。参拝時は平日の午前早めの時間で、地元風のご老人数名が参拝に来ていた。
※旅行サイト<じゃらん>において、津市で1番人気がある(口コミ数が多い)寺社仏閣。
境内入口の<仁王門>。1984年建立。
仁王門をくぐり境内を望む。
仁王門をくぐってすぐ左手にある<手水屋>。1986年完成。
銅像水盤は江戸時代後期の名工・奥山金吾重盈(しげみつ)の作で、龍の口は奥山の子孫・山本真治(人間国宝)の作。何気にすごいものを発見。
側面に「一御厨(いちみくりや)」とあるのは、かつて伊勢神宮領荘園の一番の御厨にあり、当寺が「一御厨観音」と呼ばれたことに由来するとのこと。
側面に「一御厨(いちみくりや)」とあるのは、かつて伊勢神宮領荘園の一番の御厨にあり、当寺が「一御厨観音」と呼ばれたことに由来するとのこと。
参道を進んで右手にある<鐘楼>。写真左側には古い梵鐘。
参道を進んで左手にある<地蔵菩薩坐像>。別名<延命地蔵>。頭部は藤堂高虎が朝鮮から持ち帰ったと伝わる。
当寺の構造物は、戦時中の米軍による津大空襲によりすべて焼失したが、銅造の物だけが残ったようで、この銅造地蔵菩薩像、銅像水盤、銅燈籠、梵鐘が残ったとのこと。
当寺の構造物は、戦時中の米軍による津大空襲によりすべて焼失したが、銅造の物だけが残ったようで、この銅造地蔵菩薩像、銅像水盤、銅燈籠、梵鐘が残ったとのこと。
参道を進んで左手にある<護摩堂>。1994年建立。ピンク色がキュート。
護摩堂の右に建つ<?>と<地蔵堂>。左の建物の中を覗くと、白い小さな狐がたくさん。<稲荷社>らしい。
<観音堂>全景。1968年落慶。左には<五重塔>、右には<津観音資料館>。
本堂内。奥に本尊の<聖観音立像>を祀る。<日本三大観音>の一つとされるが、大きさではないらしい。
右手には授与所。御朱印はこちら。
本堂前には<銅像阿弥陀如来立像>と平安時代の伊賀出身の僧<澄心>像。
本堂に向かって右手にある鎮守社。扁額には<三社宮>とあり、立札によると<火守神=猿田彦神社、秋葉神社、阿多古神社>とある。
戦後の再建だが、本堂と五重塔の組合せは絵になる。
本堂の左側にある<五重塔>。2001年建立。三重県下初の木造五重塔。
世界平和を祈願して建てられたらしい。内観はできないが、テクノロジー対応でGoogleでインドアビューできる。
世界平和を祈願して建てられたらしい。内観はできないが、テクノロジー対応でGoogleでインドアビューできる。
五重塔の左側に、西国三十三観音の全33観音像と弘法大師像を祀る。
最後に<本堂>全景。
すてき
投稿者のプロフィール
惣一郎1269投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。