くるまざきじんじゃ
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楽しみ方車折神社のお参りの記録(3回目)
投稿日:2026年02月07日(土) 21時52分54秒
参拝:2026年2月吉日
京都市右京区にある神社です。
ホトカミでは時々こちらの投稿を見かけますが まあ素敵な神社です。
ご存じの方もおられると思いますが 境内には何百という奉納玉垣があり 参拝者はその奉納された方のお名前を見ています。
この玉垣には有名人の名前がけっこうたくさんあるんですよ。
奉納されて2年経つと交換されてしまいますので 毎年参拝すれば新しいお名前を見つけることもできますね。
さて南側の参道を通って本殿へ向かうのですが これがけっこう距離があって 途中に境内社もいくつかあって それはそれはゆっくりお詣りしたいところです。
神門までに境内社が2つ。
愛宕社・水神社があります。
本殿大鳥居までに境内社が6つ。
大国主神社・辰巳稲荷社・小唄掘派祖霊舎・祖霊社・葵忠社・清少納言社・芸能神社があります。
芸能神社は別で投稿させていただきます。
大鳥居はくぐらずに右手に曲がります。
この日は(いつもか?)かなり混雑していて 手水舎にも行列 拝殿にも行列。
できるだけ映り込みがないように待ってはみたものの 無理でした。
拝殿でご挨拶をさせていただいて 続いては社務所。
これがまた行列。
なぜか皆さん書置きのご朱印をお求めのようで 思っていたよりは早く授与できました。
せっかく直書きしていただけるのに なぜ書置きを求めるのかがわからん。
水神社のお守りもいただきました。
境内はまだ北側にも広がっていますので巡ります。
清めの社・天満天神社・神明神社・弁天神社 (滄海神社)・地主神社・八百萬神社があります。
立派な境内社がこれほどある神社は珍しいと思います。
途中献木がありました。
観月ありささんと 土屋太鳳(姉妹)さんの桜です。
桜の成長はまあまあ早いと聞きますが まだまだ幼木でした。
いよいよ北側の鳥居にやって来ました。
目の前は 嵐電の車折神社駅です。
駅のホームの階段を下りるとそのまま参道になっていました。
神社の参拝者のために設計されたホームですね。
ネット情報です。
主祭神は清原頼業(車折明神)
社格は旧村社
創建は文治5年(1189年)
別名は宝寿院(寶壽院)車折大明神
札所は神仏霊場巡拝の道第91番(京都第11番)です。
車折神社(くるまざきじんじゃ)は 神社本庁に属さない単立神社である。
氏子を持たず 全国の崇敬者によって成り立っている。
祭神は清原頼業(きよはらのよりなり)である。
頼業は 学問で有名な広澄流清原氏の出であり 自身も平安時代後期の著名な漢学者・儒学者であった。
大外記の職を長年務め 晩年には九条兼実より政治の諮問を受け 兼実から「その才 神といふべく尊ぶべし」と評された。
文治5年(1189年)に清原頼業が亡くなると 清原家の領地であった現在地に頼業の廟が設けられ 後に頼業の院号にちなんで宝寿院という寺院が建立された。
その後 宝寿院は清原家の菩提寺となり その境内に頼業を祀る社が建てられた それが当社の起源である。
なお 頼業は良く桜を愛でていたことから当地には多くの桜が植えられ 別名「桜の宮」と呼ばれていた。
社名の「車折」については ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所 突然車が裂けてしまったためとも 後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際 社前で突然車が前に進まなくなったので不思議に思って社の者に問うた所 頼業公を祀ると答えがあったので 還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいう。
室町時代に天龍寺が建立されると宝寿院はその末寺となった。
頼業を祀る社が車折神社と呼ばれて一般に信仰が広まるのは江戸時代以降のようである。
当社は明治時代になると神仏分離によって宝寿寺から独立したが 荒廃してしまった。
そこに 文人画家で儒学者でもある富岡鉄斎が宮司として入り 復興させた。
ホトカミでは時々こちらの投稿を見かけますが まあ素敵な神社です。
ご存じの方もおられると思いますが 境内には何百という奉納玉垣があり 参拝者はその奉納された方のお名前を見ています。
この玉垣には有名人の名前がけっこうたくさんあるんですよ。
奉納されて2年経つと交換されてしまいますので 毎年参拝すれば新しいお名前を見つけることもできますね。
さて南側の参道を通って本殿へ向かうのですが これがけっこう距離があって 途中に境内社もいくつかあって それはそれはゆっくりお詣りしたいところです。
神門までに境内社が2つ。
愛宕社・水神社があります。
本殿大鳥居までに境内社が6つ。
大国主神社・辰巳稲荷社・小唄掘派祖霊舎・祖霊社・葵忠社・清少納言社・芸能神社があります。
芸能神社は別で投稿させていただきます。
大鳥居はくぐらずに右手に曲がります。
この日は(いつもか?)かなり混雑していて 手水舎にも行列 拝殿にも行列。
できるだけ映り込みがないように待ってはみたものの 無理でした。
拝殿でご挨拶をさせていただいて 続いては社務所。
これがまた行列。
なぜか皆さん書置きのご朱印をお求めのようで 思っていたよりは早く授与できました。
せっかく直書きしていただけるのに なぜ書置きを求めるのかがわからん。
水神社のお守りもいただきました。
境内はまだ北側にも広がっていますので巡ります。
清めの社・天満天神社・神明神社・弁天神社 (滄海神社)・地主神社・八百萬神社があります。
立派な境内社がこれほどある神社は珍しいと思います。
途中献木がありました。
観月ありささんと 土屋太鳳(姉妹)さんの桜です。
桜の成長はまあまあ早いと聞きますが まだまだ幼木でした。
いよいよ北側の鳥居にやって来ました。
目の前は 嵐電の車折神社駅です。
駅のホームの階段を下りるとそのまま参道になっていました。
神社の参拝者のために設計されたホームですね。
ネット情報です。
主祭神は清原頼業(車折明神)
社格は旧村社
創建は文治5年(1189年)
別名は宝寿院(寶壽院)車折大明神
札所は神仏霊場巡拝の道第91番(京都第11番)です。
車折神社(くるまざきじんじゃ)は 神社本庁に属さない単立神社である。
氏子を持たず 全国の崇敬者によって成り立っている。
祭神は清原頼業(きよはらのよりなり)である。
頼業は 学問で有名な広澄流清原氏の出であり 自身も平安時代後期の著名な漢学者・儒学者であった。
大外記の職を長年務め 晩年には九条兼実より政治の諮問を受け 兼実から「その才 神といふべく尊ぶべし」と評された。
文治5年(1189年)に清原頼業が亡くなると 清原家の領地であった現在地に頼業の廟が設けられ 後に頼業の院号にちなんで宝寿院という寺院が建立された。
その後 宝寿院は清原家の菩提寺となり その境内に頼業を祀る社が建てられた それが当社の起源である。
なお 頼業は良く桜を愛でていたことから当地には多くの桜が植えられ 別名「桜の宮」と呼ばれていた。
社名の「車折」については ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所 突然車が裂けてしまったためとも 後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際 社前で突然車が前に進まなくなったので不思議に思って社の者に問うた所 頼業公を祀ると答えがあったので 還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいう。
室町時代に天龍寺が建立されると宝寿院はその末寺となった。
頼業を祀る社が車折神社と呼ばれて一般に信仰が広まるのは江戸時代以降のようである。
当社は明治時代になると神仏分離によって宝寿寺から独立したが 荒廃してしまった。
そこに 文人画家で儒学者でもある富岡鉄斎が宮司として入り 復興させた。

参道の始まり

社号の石柱が目印です

由緒書

ここから境内

こちらの石柱は円柱形です

愛宕社

水神社 龍神様

説明

神門

神門をくぐって右手に鳥居

大国主神社 大黒様


辰巳稲荷神社 宇迦之御魂神

説明

小唄掘派祖霊舎

この歌をとなえておまいり下さい

清少納言社 清少納言

説明

祖霊社

葵忠社

ようやく本殿の鳥居

手水舎

由緒書

拝殿前には行列

拝所

清めの社

本殿と拝殿

八百萬神社

天満天神社 天満大神

神明神社

観月桜 観月ありささん献木

せとか桜 土屋炎伽・太鳳・神葉さん献木 枯れそう

地主神社

本殿

弁天神社 (滄海神社) 市杵島姫命

池の中に本殿

由緒書

説明

嵐電駅前の参道

狛犬がのけ反ってる


北側の鳥居は 嵐電の車折神社駅のホームからすぐです
すてき
投稿者のプロフィール

くるくるきよせん3171投稿
「すてき」 をくださるみなさま、ありがとうございます。 拙い投稿ですのに、本当に感謝しかありません。 2022年の正月に、ふと思い立って古都の寺社巡りを始めました。 由緒書きを読んだり、お話を伺...もっと読む
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