はらたにべんざいてん
原谷弁財天のお参りの記録一覧
本日私が遠くてお参りには行けないので、関係者の方に送金し、奉納していただきました😊魂の繋がりに感謝して弁財天様の方角を向いて、二礼二拍手一礼🙏し参拝した気持ちに成りました、写真を送ってくださいましたので、アップしておきます🙇あくまで私感ですが、写真を見て何か懐かしい気持ちになりました。
弁財天様の拝殿本殿🙏
白龍大神様の本殿🙏
石神様かと思います🙏
もしかしたら、私のご先祖様達が住んで居た場所ではないかと思います、何故なら弁財天さんの名前が私の名字ですし、紹介でも書いてます、平氏の落人と父より聞いています、また従姉妹はお参りに行きましたね🙏私は身体が悪く行けてません😢いつかいきたいと思っていますが、今回素晴らしいご縁が有りまして、出来たばかりの御朱印を郵送してくださいました、日付は発送していただいた日です、御尽力をつくしてくださいました方に感謝です🙏以下原谷弁財天さんのホームページから抜粋しました、良かったら読んでください🙇(ホームページより引用しています)文治2年、壇の浦の戦いに破れた平家一門が、洛北の山中に落住するのを原谷の祖形とする。原谷に住居を定めた一族は、都が一望にできる長谷山頂上見張り番を立て、原谷を乾・巽・艮・坤の地区に分散し、坤の方向に弁財天、乾の頂上に八幡宮を祀った。弁財天・福徳八幡宮は、戦いの神として信仰され、不要になった武器を「八幡宮」裏山に納めたという。やがて住民は山を下り、明治の初期まで30人ほど住んでいたが、相ついで都周辺に下りた。神社の守りをすることができず、八幡宮はわら天神へ、弁財天は仁和寺へと遷座した。 第二次大戦後、食糧増産緊急開拓の事業が始まり、原谷地区にも18世帯が入植し、村造りが始まった。先住者の守護神としていた弁財天を原谷に里帰りさせたいという住民たちの要望により、昭和26年、内田弥太郎氏宅まで出迎えた。昭和53年、社殿が落成し、原谷地域の氏神様として祀られるようになった。
御朱印です、ホトカミさんには初見参ですかね?まさに名字が書いてます😌元旦とお祭り日だけ、いただけるそうです。
(写真お借りして)朱色の鳥居です
(お借りしてます)本殿です🙏
(お借りしてます)奥に白龍大神の末社
京都府のおすすめ2選🍁
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