いまみやじんじゃ
今宮神社のお参りの記録一覧
大徳寺をでて今宮神社へ。
5月5日は神幸祭ですが、ちょうど神輿と出会いました。おお。境内では剣鉾のお払いの神事もされてました。ラッキーです。
参拝と御朱印は混むかと心配しましたが、すんなりいきました。
あぶり餅は行列だったので、また次回に。
御朱印いただけました。
楼門。前を神輿が通ってます。
本社。
疫社。
神事がおこなわれてました。奥は拝殿。
八幡社と八社。
稲荷社。
月読社。
絵馬殿。
神輿と牛。
神輿と奥に楼門。
京都一日目③
今宮神社
疫病を沈めるやすらい祭が有名です
広い境内には見所が沢山です。
最近京都を紹介する番組で俳優さんが御由来や歴史や云われなんかを説明されながらお参りしていたので思い出しながらお参りしました。
上の写真の一番右端の祠は信長公をお祀りしています
時代劇にそのまま使われるという茶店
今回の京都旅の大きな目的のひとつ…🤭
京都市北区にある神社です。
北区には大きな神社が複数ありますが こちらはその中でも境内が広くて有名です。
摂社末社ともに多くあり すべてを見て回ると1時間はかかると思います。
神社横には あぶり餅のお店が並んでいて どのお店も行列ができています。
お参りの後に 餅とお茶 寄ってみてはいかがでしょうか。
祭神は 大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)です。
別名「玉の輿(たまのこし)神社」とも呼ばれているそうです。
西陣の八百屋に生まれた「お玉」が 江戸幕府第3代将軍徳川家光の側室となり 5代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となりました。
このことが「玉の輿」ということわざの由来になったとの説があります。
「阿呆賢さん」と呼ばれる神占石があり 叩くと怒るともいわれ 撫でて軽くなれば願いが叶うとされています。
拝殿よりも人が並んでいるので どこにあるのかすぐ分かると思います。
現在の今宮神社がある土地には 延暦13年(794年)の平安遷都以前から疫神スサノオを祀る社(現・摂社疫神社)があったとされます。
平安遷都後にはしばしば疫病や災厄が起こり 神泉苑 上御霊神社 下御霊神社 八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれました。
正暦5年(994年)にも都で大規模な疫病が流行ったため 朝廷は神輿2基を造って当地で祀られていた疫神を乗せ 船岡山に安置し 音楽奉納などを行った後 疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流しました。
民衆主導で行われたこの「紫野御霊会」が今宮祭の起源とされ 京都の他の都市祭礼と同じく災厄忌避を祈願する御霊会として始まりました。
長保3年(1001年)にも疫病が流行したことから 朝廷は疫神を船岡山から移し 疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けました。
疫病が流行るたびに紫野御霊会が営まれ やがて今宮社の祭礼(今宮祭)として定着して毎年5月に行われることとなったそうです。
ずいぶん南側に下ったところに一の鳥居があります
まだまだ社殿が見えません
遠くに楼門が見えます こんなに離れた所に石柱があります
見事な楼門
由緒書
神額の字が読めない
大絵馬
拝殿 奉納品が多い多い
本殿
摂社
摂社
絵馬は焼き印でした かっこいい
疫病を鎮める神として信仰される。
現在の社地には古来より疫神社が鎮座していたといわれる。
994年一条天皇が疫病を鎮めるため疫神を船岡山に遷座した。
1001年再び疫病が発生したことから、新たに大己貴命、事代主命、奇稲田姫命の三神を祀る神殿を造営し、疫神も現在地へ遷し創建された。
社名の今宮は新しい宮ということに由来している。
玉の輿の語源となった(西陣の八百屋お玉が江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母となった)桂昌院が1694年社殿の造営を行っている。
1896年社殿を焼失したが、1902年再建された。
拝所
拝所・本殿
拝所・本殿
拝殿(桂昌院の再建)
本殿
疫神社門
疫神社
疫神社
楼門
織姫社
八社(桂昌院の建立)
大国社、蛭子社、八幡社、熱田社、住吉社、香取社、鏡作社、諏訪社
八幡社
大将軍社(桂昌院の建立)
日吉社
稲荷社
紫野稲荷社
織田稲荷社
若宮社(桂昌院の建立)
若宮社(桂昌院の建立)
若宮社(桂昌院の建立)
若宮社(桂昌院の建立)
地主稲荷社
地主稲荷社
地主稲荷社
月読社
月読社
月読社
宗像社(桂昌院の建立)
神馬舎
手水舎(桂昌院の建立)
手水(お玉の井。桂昌院の建立)
手水(お玉の井。桂昌院の建立)
東門
当社地には平安建都以前より疫神(えきしん)を祀る社があったといわれる。建都ののち平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会(ごりょうえ)が営まれた。今宮社の紫野御霊会もその一つである。すなわち、一条天皇の御代正暦五年(994)六月、当社地の疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。そしてこの時、京中の老若男女は挙って神輿に供をし船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唱い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれる。これが夜須礼(やすらい祭)である。長保三年(1001)ご霊夢によって疫神は船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇ともども今宮社と名づけられた。これが今宮神社の起源である。創祀以来朝野の崇敬を集め、とりわけ徳川綱吉公生母桂昌院の崇敬は西陣への愛郷の念とともに厚く、元禄七年(1694)には荒廃していた社殿の造営など大いに務められ、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられる。明治二十九年本社殿を焼失したが、同三十五年に再建し、その後も西陣をはじめ多くの人々の崇敬を集めている。
お茶室でゆっくりさせていただいた後、ご案内いただき今宮神社を参拝。
社務所でご挨拶させていただいたところ、
昨年の兵庫県での講演を聞いて下さっていま神主さんと再開してお話できました。ご縁が広がって嬉しい。
飛行機雲がクロスしていました。
こちらが元々正門でした。
和歌のおみくじ
あぶり餅、あぶり中。
美味し過ぎました。
両サイドにお店ありましたが、両方食べ比べしました。
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