ほんぽうじ|日蓮宗本山|叡昌山
本法寺のお参りの記録一覧(3ページ目)
【本法寺】
‐長谷川等伯の想いが込められた涅槃図を有する日蓮宗の本山‐
●概要
山号:叡昌山(えいしょうざん)
開山:日親
宗派:日蓮宗
●歴史
本法寺は今から約500年前、東洞院綾小路の辺りにあった「弘通所」という建物から始まります。
1440年に日親上人は『立正治国論』を著し、当時の将軍の室町幕府第6代将軍・足利義教のもとに赴き、日蓮宗への改宗を説得します。これに義教は激怒し、日親は投獄されて本法寺も破却されてしまいます。この際、日親は熱した鍋を頭に被せられるといった拷問を受けますが、それに屈しなかったことから「鍋かぶり日親」という別名が生まれました。
嘉吉の変で義教が暗殺されたことで日親は赦免され、四条高倉の地に本法寺を再建するも、1460年にまたも破却されてしまいます。その後、1464年に本法寺は三条万里小路に移転して復興を果たすこととなります。しかしながら、1536年。比叡山の宗徒らが洛中の日蓮宗寺院を焼き払った「天文法華の乱」により、一時は都を追われて大坂の堺に避難します。1542年に京へ戻り、一条戻橋付近で再興されます。1587年の豊臣秀吉による都市整備によって、現在地へ移転します。その際に檀家の本阿弥光二・光悦親子が援助をし、伽藍整備が為されたとのことです。
1788年には京中を火の手が包んだ天明の大火は本法寺にも甚大な被害を与えました。経蔵と宝蔵以外の建物が焼失しますが、すぐに復興され現在へと至ります。
●境内
▶巴の庭
本阿弥光悦によって作られた唯一のお庭。
庭の三か所に勾玉型の築山が築かれていることから「三巴の庭」「巴の庭」と呼ばれます。
庭の右奥には枯滝組があり、白く細い筋が何本もある模様の石が滝が勢いよく流れる様を表しています。庭の中央には真ん中に少しだけ溝がある平たい丸い石と、石に囲まれた蓮池があります。
こちらは丸い石→「日」、蓮池→「蓮」を表していて、日蓮宗を意味します。
他にもキリシタン燈籠などがあります。
▶十の庭
9つの石と白砂利の枯山水のお庭。
「じゅうの庭」とはよまず、「つなしの庭」と読みます。
1~9までの数字は物を数えるときには、「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」「よっつ」「いつつ」「むっつ」「ななつ」「やっつ」「ここのつ」と言い、「つ」がつきます。
けれども10は「とお」とよみ「つ」がつきません。そのことから十を「つなし」と読み、10個目の石がない九つの石で構成されていることから「十(つなし)の庭」との名前がついています。
▶仏涅槃図
長谷川等伯によって描かれた涅槃図。涅槃図とはお釈迦様が亡くなられる際の様子を描いた絵です。本法寺の涅槃像は縦約10m、横約6mのとても大きな涅槃図です。2階建ての宝物館の吹き抜けにかけられており、1階から見上げることも2回から同じ目線で見ることもできます。本法寺の涅槃図は東福寺の明兆作の物、大徳寺の狩野松栄作の物と合わせて「京都三大涅槃図」の1つに数えられています。毎年3月15日からの1か月間ほど、本物を見ることができます。
本法寺の涅槃像は他の寺院の涅槃像と変わった特徴的な部分として、猫が描かれている、西洋犬が描かれている、長谷川等伯自身が描かれている、この3つが挙げられます。
①猫が描かれている
涅槃図にはふつう猫は描かれません。それには理由があります。
お釈迦様が亡くなられる直前、既に亡くなられていたお釈迦様のお母さまの摩耶夫人がお供と共に雲に乗って現れ、お釈迦様に不老不死の薬を包んだ袋を杖にくくりつけて投げて届けようと試みます。しかし、薬を包んだ袋は木にひっかかってしまい、お釈迦様に届きませんでした。それに気が付いたのが、お釈迦様の遣いのネズミでした。ネズミはひっかかった袋を取ろうと木に登ろうとしますが、ネズミの天敵である猫がネズミを追いかけまわしてしまい、ネズミは薬を取ることができず、お釈迦様はそのまま亡くなってしまいます。
そのことから猫は「お釈迦様が亡くなった原因だ」とされ、涅槃図に描かれないことが多いです。しかしこの涅槃図には珍しく猫が描かれています。
②西洋犬が描かれている
涅槃図には様々な動物たちが描かれますが、その中で本法寺の涅槃図の特徴的なこととして日本犬ではなく、ボーダーコリーのような西洋犬が描かれていることです。
これは作者・等伯の経験によるものです。この涅槃図は26歳の若さで急死した息子・久蔵を偲んで描いたものです。久蔵は類まれなる才能が有り、等伯は長谷川派の後継者として久蔵の成長を楽しみにしておりました。しかしながら久蔵は26歳で急死してしまいます。久蔵が亡くなり、等伯は大きなショックを受けて一時は筆をおくことを考えたほどでした。しかしその悲しみを乗り越え、久蔵のためにこの涅槃図を描きます。
久蔵の生前、等伯と久蔵は大坂の堺へ南蛮船を見に行ったことがありました。その中で西洋犬を見て、等伯は久蔵との大切な思い出をこの涅槃図に現すために、日本犬ではなくボーダーコリーのような西洋犬が描かれました。
③長谷川等伯自身が描かれている
涅槃図に作者の長谷川等伯自身が描かれているとされます。
それは涅槃図の左側。8本描かれている沙羅双樹の木の中で、一番左の木の根元で、青い服を着て顎に手を当てた男性が等伯だとされています。
理由としては、他の人物や動物たちが悲しんでいる表情なのに対して一人傍観するような姿で描かれていることがあげられます。
本法寺で涅槃図を見てみる際は探してみてください!
・等伯と本法寺
涅槃図を描いた等伯は、元は北陸の七尾の出身で上洛して絵師となります。その上洛の際に頼ったのが本法寺。等伯は上洛当初、本法寺の塔頭・教行院へ身を寄せました。そうした強いご縁があり、長谷川等伯は本法寺へ涅槃図を奉納します。
また、この涅槃図の右上には「自雪舟五代長谷川藤原等伯(せっしゅうよりごだいはせがわふじわらとうはく)」と書かれており、等伯は自身のことを雪舟の画系の五代目だと称していたことが分かります。
さらに、涅槃図の裏面には等伯の父母を含めた等伯の家系図が描かれており、裏面の写しが本法寺の宝物館で見ることができます。
▶花唐草文螺鈿経箱(重要文化財)
本阿弥光悦作の経箱。箱全体が漆で塗られ、蓋には螺鈿細工で描かれた花唐草模様と法華経の文字が書かれています。この経箱には平安時代前期の能書家・小野道風が書いた『紫紙金字法華経』が納められています。
小野道風は優れた能書家で「三跡」の一人に数えられましたが、この経箱を作った本阿弥光悦自身も「寛永の三筆(近衛信尹、松花堂昭乗)」に数えられるほど書に長けていました。本法寺にはほかにも光悦筆の書や、茶碗が残されています。
小川通から入る楼門。この時は特別拝観ライトアップ。
庫裏への入口から。雪のふる中で。
巴の庭
巴の庭。雪ver。手前の丸い石が「日」、奥の蓮池が「蓮」を表す。
夜間特別拝観でライトアップされた巴の庭。
十の庭。
「琳派」の代表格、本阿弥光悦による「巴の庭」や、長谷川等伯による大涅槃図で有名な御寺。
表千家・裏千家の並ぶ茶道の地であり、応仁の乱における合戦場でもある。
普段は人影もあまりなく、静かでゆったりとした時間を過ごすことができる。
本法寺。裏通り側のこちらが正面。
足腰の健康祈願に奉納される「御達者草履」
正門より入ってすぐ。
摩利支天堂の狛猪。
境内。
境内。
長谷川等伯像。
大通り側からだと茶道資料館が目印になります。
付近は表千家・裏千家が並ぶ茶道の地。
応仁の乱の合戦場跡地でもある。
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