みょうかくじ|日蓮宗本山|北龍華具足山
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妙覺寺(妙覚寺)のお参りの記録一覧(2ページ目)

過去記録
平成30年(2018年)2月25日(日)京都・北野天満宮と高槻の天神祭へ
京都市上京区の妙覚寺に参拝
妙覚寺は「京の冬の旅」で公開されています。日蓮宗の本山の一つ。開祖は日像(というのがこの寺での説明内容なんだが、一般的な理解は違うらしい。)。戦国時代の法華の乱などもあり、できてからあちこちに移転したとのこと。織田信長の宿舎としては本能寺よりも妙覚寺の方が多く使われたとのこと。
本堂に入って、びっくり!現代アート的なド派手なお釈迦様と四天王が並んでおられるではないですか。格好いい!と思えば格好いい。
ご本尊は南無妙法蓮華経の髭文字。
ここの庭は、お寺の庭によくあるような池や枯山水といったものはない。日蓮宗では「ありのまま」の庭にするのだとの説明。
開祖堂には日蓮や日像の像があり、その脇に今回の目玉の涅槃図がある。おお、確かにでかい!
釈迦如来の母親の摩耶夫人がお釈迦様の脇で泣いているのは珍しいなあと思ったんだが、解説によると、摩耶夫人が天から下りてくるのを描くのは江戸時代以降のやり方で、それより前は既に下りている姿を描いたとのこと。
涅槃図なのでいろいろな動物が描かれているのだが、あれ、猫の姿も。一般的には涅槃図には猫は画かれないので、猫を描いているとそれだけで東福寺のように観光ネタになるんだが、ここのお寺ではその点について特に説明もなく展示されているというのが面白い。






【妙覚寺】
●概要
山号:北龍華具足山
開山:日實
宗派:日蓮宗
●歴史
妙覚寺の始まりは今から約600年前の1378年にさかのぼります。
妙顕寺の後継者候補であった日實上人が妙顕寺を離れた際に、豪商の小野妙覚が四条大宮の地を日實上人へ寄進し、寺院を建立した事から妙覚寺が始まります。
妙覚寺はその後4回移転をくり返し、現在地へと移されます。
始めは室町幕府第9代将軍足利義尚の命により、二条衣棚(現在の中京区上妙覚寺町、下妙覚寺町)に移ります。この際、妙顕寺と並ぶほど都での地位を確立し、当時の広大な伽藍の様子は「洛中洛外図屏風」にも描かれています。
1536年の天文法華の乱で比叡山の宗徒により境内をことごとく焼き払われ、堺へ移転します。その後、1549年に二条衣棚の旧地に再建され、後に豊臣秀吉の洛中整理令によって現在地へ移転。
1788年には京都中を炎に包んだ天明の大火により一部の建物を残して全焼しますが、同年に49世日遂上人によって復興が始められ、伽藍が整備されます。
●境内
▶齋藤道三遺言状
美濃の戦国大名・齋藤道三が、自身の息子で妙覚寺19世の日暁上人へあてた遺言状。
道三は幼少期に妙覚寺で出家をしていました。その後、油商人となり戦国大名にのぼりつめた下剋上大名の典型例として知られています。
晩年は嫡男の義龍を差し置いて弟たちを溺愛するようになり、義龍との間に亀裂が生じます。その後、義龍がクーデターを起こし、両者は長良川で激突。道三は7倍近い兵力差になすすべなく、討ち死にします。
その決戦前夜に死を覚悟した道三が日暁上人に根性の別れを告げるために書いた遺言状が、現在も妙覚寺に残る遺言状です。
冒頭に「美濃の国を織田信長に譲る。」とのことが書かれているため別名「国譲り状」とも呼ばれます。
▶妙覚寺の変…!?
妙覚寺は織田信長が京都へ上洛した際の宿舎として用いられていました。
“信長の京都での宿舎”というと本能寺を思い浮かべますが、信長の20数回の上洛のうち本能寺に宿泊したのは3回のみで、一番宿泊回数が多いのは妙覚寺の18回であるとされています。
もしも信長が妙覚寺に泊まっているときに襲われていたら、妙覚寺の変として歴史にその名を刻んでいたのかも…!?
また、本能寺の変当夜には信長の息子・信忠が妙覚寺に宿泊していました。本能寺での異変をしった信忠はすぐさま兵を集めて二条御所に立て籠もり応戦。しかし奮戦かなわず火を放ち自害しました。
妙覚寺が織田信長の宿泊所となっていた理由としては、信長が浄土宗や比叡山を中心とした天台宗と対立していたことや、当時の寺院は堀を穿ちや塀をめぐらした城郭のような寺院で砦のような機能を持っていたことがあげられます。
▶法姿園
本堂東側にあるお庭。
紅葉を植えたのみの作りの自然庭園。法華経の中にある「諸法実相=あるがまま素晴らしい」という教えを現したお庭。
秋にはライトアップが行われることも。
▶華芳宝塔
本堂北側に建つ塔。入母屋造りの木造の多宝塔。
塔の内部には日蓮上人直筆の法華経が納められた石造りの華芳塔が安置されています。高さは65㎝。
日蓮聖人は24歳の時に仏教を学ぶために比叡山に入山し、約10年間、比叡山の華芳谷定光院にて修行していました。その時に修行の傍ら法華経を書き写し、定光院のそばにあった岩を自ら刀で塔の形に刻んで、中に書き写した法華経の一部を納めました。そして、将来日蓮宗を開く決意を込めて地中に埋めます。
織田信長の比叡山焼き討ち後、この華芳塔を岩倉村の山本修理亮が発見し、日ごろ帰依していた妙覚寺に納めました。
華芳塔は一部焼け崩れた部分などが見え、焼き討ちの影響が垣間見えます。
華芳塔を納める華芳宝塔は桃山時代に作られ、高さは252㎝。正面の扉は観音開きで、狩野派の絵師による四天王像などが描かれています。
屋根は瓦葺で、三手先斗栱(みてさきときょう)という唐様建築によって支えられています。
▶祖師堂
妙覚寺の境内西側にある建物。本堂とは渡り廊下でつながっています。
祖師堂には日蓮宗の布教に尽力した、日蓮上人、日像上人、日郎上人の像が納められています。
日蓮上人の像は高さ81㎝で鎌倉時代の作、日像上人が高さ75㎝、日郎上人の像は高さ80㎝で桃山時代の作とされます。3像とも等身大の坐像です。玉眼が施され、寄木造で造られています。
▶仏涅槃図
妙覚寺には狩野元信によって描かれた涅槃図が所蔵されています。
高さは5.9m、横幅は4.9mある大きな涅槃図です。

法姿園


入口

渡り廊下からみた境内

3月18日迄行われている「京の冬の旅」冬季非公開文化財特別公開。
ここ、妙覺寺の大涅槃図が初公開となっております。
期間中はボランティアスタッフによる詳しい解説を聞くことができますよ。
特別公開中です。
三門から本堂まで。
庫裡。うけつけはこちら。
庭園「法姿園」
撮影禁止につき半券にて。現物はだいたい高さ5mくらい。
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