さるたひこじんじゃ
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京都市上京区にある神社です。
御霊神社の境内を出たあたりで雨がぽつぽつ降ってきました。
傘をもっていなかったので どこかで雨宿りしたいなぁと思いつつ 次の目的地であるこちらの神社にやってきました。
猿田彦神社は 御霊神社の近く 住宅街の民家と駐車場の間にありました。
町の神社で境内は広くないですが 何故かこの時は気になってしかたがなかったんです。
ありませんか?何だかわからないけど どこが違うのかわからないけど 違和感を感じること。
そう感じながらよくよく見てみたんです。
分かりました。鳥居です。
石鳥居ですが 全てのパーツが円柱で 最上部の水平な部分「笠木」しかないんです。
「手抜き?」 「なんで一本だけ?」 「角柱の笠木にした方がかっこいいやん」 気になりだしたら止まりません。
雨足が強くなってきて 瞑想から脱出しました。
拝殿の中で 少し小降りになるまで雨宿りさせていただきました。
その間にネットで調べました。
神明鳥居と言うのだそうです。
そうかそうか 特別変わった形ではなかったか。と勝手に安堵しちゃいました。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
社伝によれば 当社の神の託宣により長岡京から平安京への遷都が行われたと伝えられています。
当社はかつて広大な敷地を持ち多数の境内社を祀っていたと言われ 足利義満の参詣が伝えられるなど権力者の崇敬も篤かったと言われています。
しかし応仁の乱により当社は悉く焼失し 戦国時代にも度々の兵火に遭い 寛政五年(1793年)に現在の非常に小さな神社として整備されたと伝えられています。

全景

由緒書 ほとんど読めない

社号の石柱

拝殿

本殿

京都市上京区散策の続きです。御所の北西部を歩きました。
上京区の史蹟百選に選ばれています。
小さいながらに とても大切にされている神社のように見られました。
上御霊神社の手前にある猿田彦神社は 今では小社となっていますが かつては広大な境内で 将軍家より神事料として小山郷柏木田が寄進されていました。
応仁の乱以後も度々火災に遭い 現在の地に移されたのは寛政5年(1793)のことです。
桓武天皇はこの神の託宣によって平安遷都を決意され 延暦12年(793)勅願によって社殿を造営されたと伝えられます。
平安遷都を決意するきっかけになるとは すごい神社ですね。
永徳3年(1383)の造営には勅使が差遣され 足利将軍義満も奉幣し 御神楽が奉納されました。
祭神は猿田彦大神と天孫降臨の途上相対して霊力を競いあった天鈿女命(あめのうずめのみこと)の2座で 皇居造営に当たっては この社の土でもって地鎮の神事を執り行われていたそうです。

間口は広くありません

由緒書 読みにくい

拝所

奥に本殿
歴史
創建年代未詳であるが往古より現今の地に御鎮座あり。桓武天皇当社の託宣により平安遷都せられたと伝えられる。また延暦13年(794)勅願により社殿御造営、神領(山城國高野村)を定められたと社記に見え、なお「御代々之聖主御崇敬異于他就中皇居御造替之砌者以地鎮行事令祭土公神給依之良賤舎屋亦准之」とありて歴代の御崇敬特に篤く、永徳3年造替の節には将軍職より小山郷柏木田を神領として寄進され御遷座祭には将軍義満社参、奉幣御神楽奉納ありて當時の社殿は本殿始め幣殿、祝詞舎、拝殿、神楽殿、神供所等あり境内至四方四町と記され境内には伊勢二所皇大神宮(南向)二柱社、日隅社、若宮社、氏神社、稲荷社(稲荷社は文安年中近衛殿の御勧請)等が配祀され其の規模実に宏壮であったが、応仁の兵乱により社頭残らず灰燼に帰し、其の後復旧されたが天正年中、度々の兵火により復興の暇なく宝永七年上御霊神楽司岡本内記座敷内に祀り寛政五年に至りて現今の社殿に奉祀せり 新築の本殿は昭和60年(1985)10月竣工せしものなり
歴史をもっと見る|| 名称 | 猿田彦神社 |
|---|---|
| 読み方 | さるたひこじんじゃ |
| 通称 | 出雲高野神社 |
| 参拝料 | なし |
| トイレ | なし |
| 電話番号 | 075-441-2260(上御霊神社) お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
| ご祭神 | 《主》猿田彦大神,天鈿女命 |
|---|---|
| 創建時代 | 伝:延暦13年(794年) |
| 創始者 | 伝:桓武天皇勅 左大臣紀古佐美・大納言藤原小黒麿 |
| 本殿 | 拝殿は桟瓦葺の平入切妻造に千鳥破風の向拝の付いたもの。本殿は銅板葺の一間社流造 |
| ご由緒 | 創建年代未詳であるが往古より現今の地に御鎮座あり。桓武天皇当社の託宣により平安遷都せられたと伝えられる。また延暦13年(794)勅願により社殿御造営、神領(山城國高野村)を定められたと社記に見え、なお「御代々之聖主御崇敬異于他就中皇居御造替之砌者以地鎮行事令祭土公神給依之良賤舎屋亦准之」とありて歴代の御崇敬特に篤く、永徳3年造替の節には将軍職より小山郷柏木田を神領として寄進され御遷座祭には将軍義満社参、奉幣御神楽奉納ありて當時の社殿は本殿始め幣殿、祝詞舎、拝殿、神楽殿、神供所等あり境内至四方四町と記され境内には伊勢二所皇大神宮(南向)二柱社、日隅社、若宮社、氏神社、稲荷社(稲荷社は文安年中近衛殿の御勧請)等が配祀され其の規模実に宏壮であったが、応仁の兵乱により社頭残らず灰燼に帰し、其の後復旧されたが天正年中、度々の兵火により復興の暇なく宝永七年上御霊神楽司岡本内記座敷内に祀り寛政五年に至りて現今の社殿に奉祀せり 新築の本殿は昭和60年(1985)10月竣工せしものなり |
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