りゅうほんじ|日蓮宗|具足山
立本寺のお参りの記録一覧
京都市上京区の大きくない寺社巡りです。
でしたが 立本寺さんは大きいお寺です。塔頭寺院も4つありました。
庭園など拝観希望は 寺務所にお届けしましょう。通り抜けや散歩は禁止されています。
「禁止」と明記されているお寺はそう多くはないと思いますが これはこれでありです。
やはり堂宇を大切に未来に伝えるためですから。
鬼子母神堂は木が新しい感じでしたが それでも文化8年(1811年)再建です。
本堂は寛保3年(1743年)再建です。どちらも京都市の有形文化財に登録されています。
この日はあまりに暑く 庭園の拝観はパスしました。
こちら立本寺さん 何度も移転されてこの地に来られたようです。
宗旨や宗派の対立により破却や焼失の歴史をおもちです。
んーーーーー対立は理解できますが破却は同意しかねます。
同じ仏教なのに 結局は政治利用されたりして利権がからむのでしょうね。
あまりに残念な歴史です。
山号は具足山 宗旨は日蓮宗 寺格は本山(由緒寺院) ご本尊は十界曼荼羅 創建年は元亨元年(1321年) 開山は日像です。
由緒については
元亨元年(1321年)に日像によって京都最初の道場として御溝傍今小路(現・京都市上京区)に創建された妙顕寺の塔頭・龍華院を始まりとする。
その後 妙顕寺や龍華院は暦応4年(1341年)に四条櫛笥(現・下京区四条大宮付近)に寺地を移している。
妙顕寺は嘉慶元年(1387年)に延暦寺により破却されるが 明徳4年(1393年)に三条坊門堀川(現・二条城南東付近)に再興されて寺号を妙本寺と改めた。
しかし 応永20年(1413年)に妙本寺は再度山門により破却され 5世月明は丹波国に難を逃れた。
応永23年(1416年)に日実は妙顕寺の旧地(四条櫛笥)に塔頭・龍華院を再興して本応寺と号したが 間もなく改称して立本寺と号した。
その一方で 月明は五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺に復称)し 本応寺と対立している。
当寺は 天文5年(1536年)に天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し 堺に避難する。
天文11年(1542年)に後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し法華宗寺院は京都へ戻ることとなり 当寺は天文13年(1544年)に新町三条に伽藍を再建した。
その後文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の命により 寺町今出川(現・上京区立本寺前町)に再び移転した。
江戸時代には後水尾天皇より園林堂(客殿)を賜る程の名刹となっていたが 以後も何度か寺地を変えている。
その後 京極今出川にあった時 宝永5年(1708年)に宝永の大火で一部を焼失している。
こうして当寺は現在地に移って再興されることとなったが その際に旧地の京極今出川で類焼を免れた祖師堂・開祖廟・鐘楼堂・本堂前井戸屋形・経蔵等を現在地へ移築している。
江戸時代末期には塔頭は20ヶ寺あったが 現在では4ヶ寺の塔頭が残る。
とありました。
山門
石柱
文化財について
鐘楼 どこいっちゃった?
鬼子母神堂
四神閣(旧祖師堂)
本堂
客殿に続く渡り廊下
塔頭
大覚大僧正ゆかりの京都四本山の一つ「立本寺」
七条松通りと仁和寺街道と交差するところにある。
境内は月極駐車場ばかりで、すぐ横に時間貸しがある。
山門はお寺の東南のところにあるが、別に山門通らなくても境内に入れる。
境内の北側にある庫裏が受付。
受付をしたらお寺の方から説明を受けながら本堂とお庭を参拝できる。
境内の南側に宿坊がある。
日蓮宗だが御主題だけじゃなくて御朱印もあります。
まだコロナの影響が少ない時にコロナのことでテレビで紹介してたので寄り道参拝。
お寺の方から日蓮宗のことや開基の僧のことなどわかりやすく教えてもらい面白かった。すぐ記録残さないから忘れた。
お庭から見える本堂
お庭
御主題待ってる間御茶菓子くれた☺️
宿坊
なんだったかなー
日蓮宗本山。
創建には諸説ある。起源は室町時代の日像上人。度々の度々移転を繰り返し、現在の地に落ち着いたのは江戸以降とされる。
子を残したまま亡くなった母が我が子のために飴屋に毎夜訪れる、という日審上人にまつわる「幽霊の子育飴」の逸話が残されている。
ここは石田三成の家臣、島左近墓所でもある。
ご門前にはちょっと厳し目の注意書きがありますが本堂ではお坊さんがおやさしく対応してくれました。
やはり日蓮宗本山ということもあってか、若いお坊さんがいっぱいいたのも特徴的。
御朱印。ご首題のほうだと日蓮宗おなじみ髭文字のやつが頂けますよ。
正門は常時閉門。本堂東側よりお参り下さい。
本堂(寺務所)
書いてもらってる間にお茶を頂いたり。
天井の梁がなかなか見事。
改めて本堂正面より。
ここはわかりやすく蓮寺ですね。
特別拝観で中まで入れていただいたのですが、実はここに来た理由の一番は
あの石田三成の軍師・島左近のお墓があると聞いてきました。
関ケ原で矢を受けて絶命したと聞いてたのですが何故ここに?と。
島左近の墓 関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている。位牌や過去帳が塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されていることがその根拠となっている。
証拠とされる年代
京都府のおすすめ2選🎍
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
10
2