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知恩院ではいただけません
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知恩院のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年04月10日(土)
参拝:2021年3月吉日
知恩院は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山、寺号は大谷寺。本尊は法然上人像(本堂)と阿弥陀如来(阿弥陀堂)。浄土宗の宗祖・法然上人の布教活動の拠点を起源とし、徳川家康が母・傳通院の菩提寺と決め壮大な伽藍を整備した。敷地は7万3千坪(東京ドーム5個分)に及ぶ。
当院は、鎌倉時代前夜の1175年、浄土宗の宗祖・法然上人が、東山吉水(現在の知恩院勢至堂付近)に結んだ草庵を起源としている。法然は1133年に美作国(岡山県)に生まれ、13歳で比叡山に登り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)、18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の僧・叡空に師事し、源光と叡空から1字ずつ取って法然房源空と改名した。その後、唐の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼、1175年、43歳の時に浄土宗の開宗を決意し比叡山を下りた。それ以降、80歳で入滅するまでの後半生を当地で過ごしたことから、草庵は「吉水御房」、「大谷禅房」とも呼ばれた。
開宗当初は困難の連続で、旧仏教側から激しく糾弾され、法然自身も75歳であった1207年から4年間、讃岐国(香川県)に流罪となっている。法然入滅後も、1227年に延暦寺の宗徒によって法然廟が破壊された(嘉禄の法難)。ただ、1234年に法然の弟子・源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。
現在のように壮大な伽藍が整備されたのは江戸時代に入ってからで、浄土宗徒であった徳川家康が母・傳通院の菩提寺と決め、寺地の拡大、諸堂の造営を行い、2代将軍秀忠、3代将軍家光もこれに続いて、伽藍を完成させた。
当院は、JR京都駅からバスで北東へ4km、祇園バス停の100m北に入口(新門)がある。新門から三門までは400mほどの登り坂の太い参道があり、日本最大の三門、巨大な御影堂(本堂)と合わせて徳川将軍家の権力の強大さに圧倒される。境内は三段構成になっていて、下段に三門、中段に本堂(御影堂)・阿弥陀堂、上段に勢至堂・御廟となっている。非常に大きな境内に、個々の建物も大型サイズ。豪壮な伽藍。
参拝時は週末の午後で、天気は大雨。午前中小雨だったため観光客は引き続き多くいた。自分は下調べが不十分で境内に<上段>があることを知らず、また当寺の梵鐘が日本三大梵鐘であることも知らず、また大雨で足が鈍って、ささっと廻って終わってしまったため、見どころの半分ぐらいしか廻っておらず、不完全な参拝となってしまった。要再参拝...涙。
※未拝観の主要な建物;大鐘楼、大方丈、小方丈、勢至堂、集会堂、唐門(以上、国指定の重要文化財)、権現堂、山亭庭園、法然上人御廟、濡髪大明神、方丈庭園、友禅苑。
当院は、鎌倉時代前夜の1175年、浄土宗の宗祖・法然上人が、東山吉水(現在の知恩院勢至堂付近)に結んだ草庵を起源としている。法然は1133年に美作国(岡山県)に生まれ、13歳で比叡山に登り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)、18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の僧・叡空に師事し、源光と叡空から1字ずつ取って法然房源空と改名した。その後、唐の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼、1175年、43歳の時に浄土宗の開宗を決意し比叡山を下りた。それ以降、80歳で入滅するまでの後半生を当地で過ごしたことから、草庵は「吉水御房」、「大谷禅房」とも呼ばれた。
開宗当初は困難の連続で、旧仏教側から激しく糾弾され、法然自身も75歳であった1207年から4年間、讃岐国(香川県)に流罪となっている。法然入滅後も、1227年に延暦寺の宗徒によって法然廟が破壊された(嘉禄の法難)。ただ、1234年に法然の弟子・源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。
現在のように壮大な伽藍が整備されたのは江戸時代に入ってからで、浄土宗徒であった徳川家康が母・傳通院の菩提寺と決め、寺地の拡大、諸堂の造営を行い、2代将軍秀忠、3代将軍家光もこれに続いて、伽藍を完成させた。
当院は、JR京都駅からバスで北東へ4km、祇園バス停の100m北に入口(新門)がある。新門から三門までは400mほどの登り坂の太い参道があり、日本最大の三門、巨大な御影堂(本堂)と合わせて徳川将軍家の権力の強大さに圧倒される。境内は三段構成になっていて、下段に三門、中段に本堂(御影堂)・阿弥陀堂、上段に勢至堂・御廟となっている。非常に大きな境内に、個々の建物も大型サイズ。豪壮な伽藍。
参拝時は週末の午後で、天気は大雨。午前中小雨だったため観光客は引き続き多くいた。自分は下調べが不十分で境内に<上段>があることを知らず、また当寺の梵鐘が日本三大梵鐘であることも知らず、また大雨で足が鈍って、ささっと廻って終わってしまったため、見どころの半分ぐらいしか廻っておらず、不完全な参拝となってしまった。要再参拝...涙。
※未拝観の主要な建物;大鐘楼、大方丈、小方丈、勢至堂、集会堂、唐門(以上、国指定の重要文化財)、権現堂、山亭庭園、法然上人御廟、濡髪大明神、方丈庭園、友禅苑。
東山観光の主要道路・府道143号線沿いにある入口<知恩院新門>。右側には巨大な寺号標。
新門をくぐると、なだらかに登る太い参道が400m続き、日本最大の楼門<三門>が現れる。五間三戸、重層入母屋造、本瓦葺。<京の三大門>の一つに数えられる(ほか2つは仁和寺、南禅寺)。
1621年に徳川秀忠によって建立された国宝の<三門>は、高さ24m、幅50mの日本最大級の木造建築。中央上部の<華頂山>の扁額は霊元上皇の筆で、大きさはなんと畳2畳半。春と秋に楼上内部の特別公開があるらしい。
三門をくぐると、きつめの階段<男坂>が現れる。山門を額に見立てて。脇の桜がちょうど満開。
男坂を登って参道を進むと、中段の境内が広がる。写真左の建物は<御影堂(本堂)>、右の建物は<経蔵>。
まずは境内西側から。鮮やかな朱色が目立つ<霊塔>。
本堂の左側(西方)、霊塔の右隣に建つ<阿弥陀堂>。本尊阿弥陀如来を安置。明治時代の再建。扁額は後奈良天皇の宸筆。
阿弥陀堂から来た方角を振り返る。写真左の建物が<泰平亭>で土産物売場。写真右の小さな建物が<朱印所>。御朱印はこちら。
改めて、国宝<御影堂>。1633年に焼失、1639年に徳川家光が再建。宗祖法然像を安置するため<御影堂>と呼ばれるが、知恩院最大の堂宇であることから<大殿>ともいわれる。
御影堂正面。入母屋造、本瓦葺。間口45m、奥行35m、外観は保守的な和様を基調とするが、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。
御影堂と向かい合うように建つ<宝佛殿>。1992年建立、内部に阿弥陀如来立像と四天王像を安置。
宝佛殿の左側にある庭園。奥には<納骨堂>。
御影堂の右側(東方)に建つ<経蔵>。1621年建立、宝形造、本瓦葺、裳階付。徳川秀忠寄進の宋版大蔵経六千巻を安置する輪蔵が備わる。国指定の重要文化財。
経蔵の左手にある<写経塔>と書かれた仏塔。
境内右奥(北東部)に満開の桜の木が見えたので。
桜の木の後ろには、よく見ると階段が。
後から分かったことには、こちらは上段の境内に向かう階段。大雨に気持ちが萎え、この先には向かわずじまい。桜の合間に<法然上人像>が見える。
中段の境内から下段の三門まで戻る。帰りは<女坂>を下ると、左側にある<鎮守八幡社>の社殿。西向きに建っている。江戸時代の創建。
こちらは<鎮守八幡社>の社殿前に建つ<舞殿>。奥の建物は茶室<真葛庵>で、毎月3日に裏千家の月釜が開かれるとか。
さらに女坂を下ると左側に<友禅苑>。友禅染の始祖・宮崎友禅生誕300年を記念して1954年に改修造園。東山の湧水を引き入れた庭園と枯山水の庭園とで構成。「華麓庵」と「白寿庵」の2つの茶室がある。入場有料。自分は大雨で気力が湧かず入らず...
三門南側から<女坂>を振り返る。
すてき
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惣一郎1269投稿
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