にゃくいちじんじゃ
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楽しみ方若一神社のお参りの記録(3回目)
投稿日:2025年11月07日(金) 21時54分22秒
参拝:2025年9月吉日
京都市下京区にある神社です。
下京区をうろうろ歩いていると どうしてもこちらにお詣りしたくなります。
もう何回目かな?投稿は3回目だと思うのですが。
平清盛公ゆかりの神社です。
境内には境内社が複数あり やや詰め込み過ぎ感があります。
社務所で御朱印をいただくとき 座敷童と境内社についてもお話してくださいました。
なんでも 清盛公御手植えの楠の木にはたくさんの座敷わらしさんが宿っていて 気に入った人と一緒にその人の家までついてくる とか。
前回も載せたと思いますがネット情報です。
光仁天皇の時代に唐から来た威光上人が摂津国天王寺に住していた。
威光は紀伊国の熊野に詣でて人々を救おうとし 熊野十二所権現の一つである若一王子の御分霊である御神体を笈に背負って旅立つと やがて当地に到来した。
宝亀3年(772年)のことであった。
威光は当地の森にあった古堂に 神意に従って御神体を安置した。
これがそもそもの当社の始まりであるという。
しかし その後異変により 御神体は土の中に入ったという。
平安時代末期 平清盛が六波羅邸に在住していた頃に 清盛は風光明媚な当地に別邸・西八条殿を造営した。
そして 仁安元年(1166年)8月に清盛が熊野に詣でた際に熊野権現から「土中に隠れたる御神体 世に出し奉斎せよ」とのお告げがあった。
清盛は帰京すると西八条殿の邸内を探索し 東方の築山より光が放たれているのを見つけた。
清盛は歓喜して自ら三尺ほど土を掘ってみると 土中より若一王子の御神体が現われたので同年11月10日に社を建立して鎮守社として祀った。
すると 翌仁安2年(1167年)2月10日に太政大臣に任ぜられた。
これにより 当社は開運出世の神様と尊崇されるようになったという。
境内には平清盛御手植の楠があるが 1939年(昭和14年)に京都市が京都市電を延伸させて当社の境内の西に通そうとした際 この楠を切れば清盛の祟りがあるとされたため 楠と当社を避けるようにして市電が通された。
市電が廃止された現在でも西大路通はそこの部分だけ蛇行している。
下京区をうろうろ歩いていると どうしてもこちらにお詣りしたくなります。
もう何回目かな?投稿は3回目だと思うのですが。
平清盛公ゆかりの神社です。
境内には境内社が複数あり やや詰め込み過ぎ感があります。
社務所で御朱印をいただくとき 座敷童と境内社についてもお話してくださいました。
なんでも 清盛公御手植えの楠の木にはたくさんの座敷わらしさんが宿っていて 気に入った人と一緒にその人の家までついてくる とか。
前回も載せたと思いますがネット情報です。
光仁天皇の時代に唐から来た威光上人が摂津国天王寺に住していた。
威光は紀伊国の熊野に詣でて人々を救おうとし 熊野十二所権現の一つである若一王子の御分霊である御神体を笈に背負って旅立つと やがて当地に到来した。
宝亀3年(772年)のことであった。
威光は当地の森にあった古堂に 神意に従って御神体を安置した。
これがそもそもの当社の始まりであるという。
しかし その後異変により 御神体は土の中に入ったという。
平安時代末期 平清盛が六波羅邸に在住していた頃に 清盛は風光明媚な当地に別邸・西八条殿を造営した。
そして 仁安元年(1166年)8月に清盛が熊野に詣でた際に熊野権現から「土中に隠れたる御神体 世に出し奉斎せよ」とのお告げがあった。
清盛は帰京すると西八条殿の邸内を探索し 東方の築山より光が放たれているのを見つけた。
清盛は歓喜して自ら三尺ほど土を掘ってみると 土中より若一王子の御神体が現われたので同年11月10日に社を建立して鎮守社として祀った。
すると 翌仁安2年(1167年)2月10日に太政大臣に任ぜられた。
これにより 当社は開運出世の神様と尊崇されるようになったという。
境内には平清盛御手植の楠があるが 1939年(昭和14年)に京都市が京都市電を延伸させて当社の境内の西に通そうとした際 この楠を切れば清盛の祟りがあるとされたため 楠と当社を避けるようにして市電が通された。
市電が廃止された現在でも西大路通はそこの部分だけ蛇行している。

歩いていると 歩道の大部分を占める

平清盛公手植えの楠

境内正面の石鳥居

社号の石柱

手水舎

龍です

平清盛公 創建の社(1166年)

本殿

古そうに見えて

微妙です

境内社 弁財天社の鳥居

弁財天社

説明

左が社務所

平清盛公ゆかりの御神水

靖国社


祖霊社

これは新しい

といってもうん十年ぐらい

境内社 稲荷神社の鳥居

扁額

本殿が2つ

平清盛公立像

願かけ岩

境内は 境内社が多くて詰め込んだ感じ

京都市の由緒書

平清盛公西八条殿跡 の石柱

弁天社の裏は玉垣が切れている
すてき
みんなのコメント(2件)
弘法 真魚京の大路は、ホント、武蔵野に住まうモノにとっては、不思議な空間と見えます。
関東にもこんな造りの寺社さんはあったかと思いますが、これだけギュウギュウ感は、ないですよねぇ(笑)~フォトたちは、ギュウギュウ感を十分に伝えてくださっていますよ!(笑)
きよさまが、何度もお詣りしたい、そう思われるのは同感!
たぶん、道路整理とかがあって、ご創建当時のお姿ではないんでしょうが、しかしこういうお姿に整える思想は、
いまの我らには想像もできないですよね。
書いていて、ふと思ったのは、「こういう発想をされたのは、ピカソみたいな人?」
なんてこと(笑)
社務所でお勤めしている方に、聞いてみたいですねぇ(笑)
「こういう環境、どう思います?」
って(笑)
2025年11月08日(土) 16時56分18秒
弘法 真魚さん こんばんは。
ほんとギュウギュウですよね。
創建当時の境内が見てみたいと私も思います。
きっとひろびろしていたことでしょうね。(笑)
2025年11月09日(日) 19時46分02秒
投稿者のプロフィール

くるくるきよせん3010投稿
「すてき」 をくださるみなさま、ありがとうございます。 拙い投稿ですのに、本当に感謝しかありません。 2022年の正月に、ふと思い立って古都の寺社巡りを始めました。 由緒書きを読んだり、お話を伺...もっと読む
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