ぶっこうじきゅうせき|真宗佛光寺派本山佛光寺舊址
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岩冨大明神から北へ向かうとお寺っぽい入り口があり中は駐車場。通路の先に「佛光寺舊址
」の大きな石碑が建ってました。その名の通り下京区の真宗佛光寺派本山の佛光寺の跡地。流刑を赦されて京都に向かった親鸞聖人が法然上人が遷化されたのを聞き、山科まで戻りこの地に滞在したそう。弟子の源海に「仏縁の潔い所だから開法の道場とせよ」と命じ、自身は布教のため関東に向かわれたとのこと。ただややこしいことにこの地に建てられた寺院は「順徳天皇から「興正寺」の寺号がおくられた」とあり、さらに「後醍醐天皇が東南から不思議な光がさすと夢を見興正寺の仏像を得て「佛光寺」と改め」たとあり、興正寺、佛光寺ともに由緒沿革に取り上げていることから双方の舊址ということにもなりそうです。

山門

佛光寺舊址碑

御堂かな?建物がありました。
| 名称 | 佛光寺舊址 |
|---|---|
| 読み方 | ぶっこうじきゅうせき |
詳細情報
| ご本尊 | 阿弥陀如来 |
|---|---|
| 宗旨・宗派 | 真宗佛光寺派本山佛光寺舊址 |
| 創建時代 | 建暦2年(1212) |
| 開山・開基 | 源海上人 |
| ご由緒 | 佛光寺旧址は、浄土真宗佛光派の本山佛光寺(京都市下京区高倉通)の発祥の地であると言われています。伝えられるところによれば、建暦2年(1212)、親鸞が40歳のとき、流刑を赦(ゆる)されて師の法然を慕って京都へ急ぐ途中、すでに法然は1月に病死していたことを聞いたのですが、「せめてお墓にお参りしたい」と8月21日、山科まで帰りこの地に留まりました。そして、中陰法要のつもりで山を越え知恩院のほとりの師の墓前に額づいて悲しんだと言います。その滞在中、村人に阿弥陀仏の慈悲の教えをとき、集まる村人は日増しに多くなってきたので、弟子の源海に「仏縁の潔い所だから開法の道場とせよ」と命じて、10月に関東に布教のため出発したということです。そして、この寺に時の順徳天皇から「興正寺」の寺号がおくられたと言います。そして、第七代の了源の頃に、ある夜賊が忍び入り仏像等を盗みだしたといいます。ところがその賊は良心の呵責か手足が痛んで動かず、仏像を捨てて逃げ去ったそうです。その明け方、後醍醐天皇は東南から不思議な光がさすと夢を見、この仏像を得て、興正寺を「佛光寺」と改め、嘉暦2年(1327)、勅令で寺院を洛東渋谷(粟田口鍛冶町)に移させたと言います。さらに、天正14年(1586)、豊臣秀吉から大仏殿建立のため移転を命じられ、下京区の現在の地に移ったと言うことです。また東野の佛光寺発祥の地には、(佛光寺派)第13世光数の子経豪が再びこの地に興正寺を建てたという話もあり、光数は本願寺に帰依し、この興正寺を拡張して「本願寺」としていたとも言われています。現在の佛光寺旧址の地は、旧址碑を大正6年(1917)に建て、昭和9年(1934)に佛光寺内の小堂を移築したものであるとされています。 |
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