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ふかくさじゅうにていりょう(ふかくさきたのみささぎ)

深草十二帝陵(深草北陵)
京都府 藤森駅

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駐車場
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ありません

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神祇伯
神祇伯
2020年05月14日(木) 09時24分59秒
1692投稿

外出自粛ですがもう我慢も限界。しかし人の多い神社には三密を考えると行けない。そんな思考の結果、御陵参拝と相成りました。
歴代の天皇さま12人を合葬した御陵です。

深草十二帝陵(深草北陵)の歴史

《由緒書き》

深草十二帝陵(深草北陵)のその他建物

《参道》

深草十二帝陵(深草北陵)の周辺

《駐車場》

深草十二帝陵(深草北陵)のその他建物

《事務所》
普段は無人です。

深草十二帝陵(深草北陵)の手水舎

《手水舎》

深草十二帝陵(深草北陵)のその他建物

《遥拝所》
☆チェックポイント!!
よくある御陵は自然の墳墓に鳥居が立っていますが、ここは方形堂という古墳とは違う形態で、仏教要素が強いです。

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歴史

持明院統の後深草法皇は、生前より、深草に納骨堂となる法華堂を建立するように指示。嘉元2年(1304年)7月16日に後深草は崩御し、遺命によって火葬された。法華堂が建立されると、嘉元3年(1305年)8月29日、伏見上皇と後伏見上皇が見守るなか落慶供養が行われ後深草法皇の遺骨が移された。
戦国時代に法華堂は焼失し、法華堂を管理していた安楽行院も衰退。後陽成天皇の遺骨が納骨された元和元年(1615年)に再建され、寛文2年(1662年)には安楽行院も再興された。しかし再建された法華堂もまもなく損壊し、元禄年間に再々建された。
明治期に深草北陵に改められた。

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深草十二帝陵(深草北陵)の基本情報

住所

京都府京都市伏見区深草坊町71

行き方
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名称

深草十二帝陵(深草北陵)

読み方

ふかくさじゅうにていりょう(ふかくさきたのみささぎ)

通称

安楽行院法華堂

参拝時間

参拝自由

参拝にかかる時間

約5分

参拝料

なし

トイレなし

詳細情報

ご祭神後深草天皇(89代)
伏見天皇(92代)
後伏見天皇(93代)
後光厳天皇(北朝4代)
後円融天皇(北朝5代)
後小松天皇(100代)
称光天皇(101代)
後土御門天皇(103代)
後柏原天皇(104代)
後奈良天皇(105代)
正親町天皇(106代)
後陽成天皇(107代)
伏見宮栄仁親王
ご神体

不詳

創建時代

嘉元3年(1305年)8月29日

創始者

後深草法皇

本殿

なし

ご由緒

持明院統の後深草法皇は、生前より、深草に納骨堂となる法華堂を建立するように指示。嘉元2年(1304年)7月16日に後深草は崩御し、遺命によって火葬された。法華堂が建立されると、嘉元3年(1305年)8月29日、伏見上皇と後伏見上皇が見守るなか落慶供養が行われ後深草法皇の遺骨が移された。
戦国時代に法華堂は焼失し、法華堂を管理していた安楽行院も衰退。後陽成天皇の遺骨が納骨された元和元年(1615年)に再建され、寛文2年(1662年)には安楽行院も再興された。しかし再建された法華堂もまもなく損壊し、元禄年間に再々建された。
明治期に深草北陵に改められた。

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