だいこくじ|単立|円通山
大黒寺のお参りの記録一覧
過去記録
平成30年(2018年)2月17日(土)大阪や京都・伏見など散歩
京都市伏見区の大黒寺に参拝
丹波橋駅から少し歩くと目指す大黒寺に到着。京の冬の旅は拝観料は600円と、結構お高いのです。
このお寺は真言宗で、ご本尊は大黒さまで、60年に一度だけ御開帳される秘仏。通称は薩摩寺。島津義弘がこの寺を薩摩藩の祈祷所にしたのです。
西郷隆盛や大久保利通が謀議をしたという部屋もあり、当時の机、筆、硯が置かれていて、さわることもできる。という説明なんだが、これ、本当に当時のものか?筆もまだ十分使えそう。「鳩居堂」と彫られています(笑)。ちなみに、説明をしているのはおそらく京都の大学の学生ボランティア。
このお寺には、薩摩藩過激尊攘派を島津久光の命により粛清した寺田屋事件で殺された尊攘派(「薩摩九烈士」と呼ぶとのこと。)の墓があり、墓碑銘は西郷隆盛の書。
この事件の犠牲者をしのぶ書も展示されている。事件当時は上意討ちされたので墓も満足なものを作ることができなかったところ、その後名誉回復されたときに詩が書かれたんですね。東郷平八郎の書も飾られている。薩摩藩だなあ。
木曽川治水工事の責任をとって切腹した薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)の墓もある。
境内には霊験あらたかな水も湧いている。
【大黒寺】
●概要
山号:円通山
開山:真如法親王
宗派:真言宗
●歴史
1615年に薩摩藩主・島津義弘が伏見の薩摩藩邸からほど近いこのお寺に自身の守り本尊と同じ「出世大黒天」が祀られていることをしり、伏見奉行・山口駿河守に頼み、このお寺を薩摩藩の祈願所としたことから、現在に至るまでの薩摩藩との深い繋がりができていきます。
その際に御本尊を大黒天とし、お寺の名前もそれまで「長福寺」だったものを「大黒寺」へと改めました。
また、開山の真如法親王は桓武天皇の孫にあたり、弘法大師空海の弟子になられた方です。
●境内
▶ご本尊「大黒天」
大黒天像は高さ24cmほどの小さな像で、出世開運、商売繁盛、家内安全などの御利益が。通常は公開されていない秘仏のため、普段は厨子の中に安置されています。
公開されるのは60年に一度、甲子の年。次回の御開帳は2044年になります。
▶金運清水
本堂の前に湧き出ている伏見七名水の1つ。
平成13年に新しく掘られたもので、霊験あらたかなお水とされ、金運良好・資産増加・子孫繁栄などの御利益が。約60年前に京都の北山に降った雨水が長い時間をかけて濾過され、ここから湧き出ています。
ちなみに毎月1日にはこの金運清水のお水が御本尊の大黒天の前に供えられます。
▶会談の間
本堂の隣にある書院の中のお部屋。
こちらで幕末、西郷隆盛や大久保利通ら志士が集まり、国事や薩長同盟について議論していた、と伝わるお部屋です。
お部屋の欄間には龍の彫刻が施されており、西郷隆盛はこの欄間をとても気に入っていたと伝わっています。
▶薩摩九烈士のお墓
本堂裏手に寺田屋騒動で粛清された「薩摩九烈士」のお墓が。
薩摩九烈士とは、1862年の寺田屋騒動で亡くなった薩摩藩の尊王攘夷派の志士9名のことです。(坂本龍馬の寺田屋事件とはまた別の騒動)
1862年、薩摩藩主・島津忠義の父・島津久光は公武合体を強く推しており、その実現のために藩兵1000名を率いて上洛。しかしながら当時は幕末の動乱期。薩摩藩士の中には公武合体(幕府と天皇が手を取り合って政治をしていこう!)ではなく、尊王攘夷(これからは天皇中心の政治をしていこう!)という考えをもつ藩士たちももちろんいました。
その尊王攘夷派の筆頭が有馬新七でした。有馬新七を中心とする薩摩藩尊王攘夷派は、久光が率いてきた藩兵を倒幕攘夷に利用し、関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃する計画を密かに立てていました。
久光はこちらの計画を察知し、有馬らに使者を遣わして説得を試みますが何度使者をだしても有馬らは応じません。そして1862年4月23日の夜、話し合いの最中に使者側と尊王攘夷派に分かれて斬り合いに発展し、寺田屋騒動がおこりました。
有馬新七を含む尊王攘夷派9名が亡くなります。
この騒動を聞きつけた大黒寺檀家総代の井筒屋伊兵衛が寺田屋に駆けつけて9名の亡骸をつつみ、大黒寺へ葬ります。
当初、彼らは藩の意向に歯向かった反逆者とされたため、立派なお墓を作ることは許されず、土を盛っただけの大変簡素なお墓でした。
その後、薩摩藩はそれまでとは真逆の「開国・討幕派」の方針へと変わったため、有馬ら9名はむしろ時代を先駆けした英雄「薩摩九烈士」として汚名を返上することとなります。そして大黒寺を訪れた西郷隆盛は自ら筆をとり、墓碑を刻んで九烈士のために立派なお墓をつくられました。
▶平田靱負のお墓(ひらたゆきえ)
薩摩九烈士とともに薩摩藩家老の平田靱負がねむっています。
平田靱負は江戸時代の難工事・宝暦治水を指揮した人物です。
濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三河川は複雑に合流と分流をくりかえり、暴れ川として古くから周辺地域に大きな被害をもたらしていました。
そこで幕府は1753年に人手や資金など全てを薩摩藩に負担させての治水工事を命じます。この難工事の責任者に任命されたのが薩摩藩家老の平田靱負です。
工事は幕府からの嫌がらせがあったり、幕府に対して抗議のために自害する薩摩藩士がでたり、病気が蔓延したり、資金が不足したりと工事は困難を極めました。
そうした苦境の中でも平田靱負は藩士らを指揮し、1755年に工事を無事完成へと導きます。
所説ありますが、工事の総費用は約200億円、犠牲者は80名にものぼったと伝わっています。工事終了後、平田靱負は多数の死者と多大な費用を出してしまったことの責任と幕府への抗議の意味を込めて切腹します。
その亡骸は京都の薩摩藩の菩提寺のこの大黒寺へと運ばれて葬られました。
屋根の上には大黒天さんが!
金運清水
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