ほうおんじ
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楽しみ方報恩寺のお参りの記録(3回目)
投稿日:2026年01月09日(金) 22時19分11秒
参拝:2025年12月吉日
京都市上京区にあるお寺です。
日蓮宗八本山の 妙顕寺・本法寺のあるエリアにやってきました。
ゆっくりお参りしたらお話も伺えますのですが 今日は未参拝寺社を優先しています。
次なる目的地は こちら報恩寺のお隣の寺院です。
なのでその前に 報恩寺にお参りです。こちらにはお参りしたことがあります。
報恩時は 黒田長政とゆかりのあるお寺です。
また 「虎の図」でも有名です。
残念ながら通常公開されておらず 正月三が日だけ特別拝観があるようです。
鐘楼には悲しい言い伝えが残っており 朝夕には撞くことがありません。
除夜の鐘は一般人でも撞くことができるそうです。
ネット情報です。
山号は尭天山 院号は佛牙院 宗旨は浄土宗 ご本尊は阿弥陀三尊 創建年は不詳 中興年は文亀元年(1501年) 中興は慶誉です。
詳しい創建年は不明であるが 寺伝では室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院・法園寺(または法音寺)として創建されたという。
室町時代中期には八宗兼学の寺となっていたが廃れてしまっていたため 文亀元年(1501年)に後柏原天皇の命により 慶誉によって堀川今出川に浄土宗の寺院として再興され 名称も報恩寺と改められた。
この時 天皇から「虎の図」が拝領されている。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命により現在地に移転する。
この頃であろうか 秀吉は当寺に来た際に後柏原天皇から頂いた「虎の図」を目にして気に入ると それを借りて聚楽第に持ち帰って飾ってみたところ 「虎の図」は一晩中うるさく吠えて秀吉は眠ることができず すぐに当寺に「虎の図」を返却したという。
それ以来 この「虎の図」は「鳴虎」と呼ばれるようになり 当寺の通称ともなった。
元和9年(1623年)8月4日 福岡藩主黒田長政は京都における黒田家の位牌寺である当寺に宿泊していたところ 客殿にて56歳で亡くなった。
徳川家光の将軍宣下の先遣として病を押して先に上洛していたところであった。
享保15年(1730年)に享保の大火(西陣焼け) 次いで天明8年(1788年)1月30日の天明の大火で全焼したが その後再建されている。
江戸時代 寺にほど近い織屋に 仲が悪い丁稚と織女がいた。
ある時 報恩寺の夕方の鐘が何度撞かれるかで口論になった。
織女の方が正しかったが 丁稚が寺で雑用をしている男に頼んで 丁稚が答えた数だけ撞いてもらった。
丁稚に負けた織女は悔しさのあまり 鐘楼に首をつってしまった。
それ以来 寺では朝夕の鐘を撞くのを辞め 鐘は「撞かずの鐘」と呼ばれるようになった。
日蓮宗八本山の 妙顕寺・本法寺のあるエリアにやってきました。
ゆっくりお参りしたらお話も伺えますのですが 今日は未参拝寺社を優先しています。
次なる目的地は こちら報恩寺のお隣の寺院です。
なのでその前に 報恩寺にお参りです。こちらにはお参りしたことがあります。
報恩時は 黒田長政とゆかりのあるお寺です。
また 「虎の図」でも有名です。
残念ながら通常公開されておらず 正月三が日だけ特別拝観があるようです。
鐘楼には悲しい言い伝えが残っており 朝夕には撞くことがありません。
除夜の鐘は一般人でも撞くことができるそうです。
ネット情報です。
山号は尭天山 院号は佛牙院 宗旨は浄土宗 ご本尊は阿弥陀三尊 創建年は不詳 中興年は文亀元年(1501年) 中興は慶誉です。
詳しい創建年は不明であるが 寺伝では室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院・法園寺(または法音寺)として創建されたという。
室町時代中期には八宗兼学の寺となっていたが廃れてしまっていたため 文亀元年(1501年)に後柏原天皇の命により 慶誉によって堀川今出川に浄土宗の寺院として再興され 名称も報恩寺と改められた。
この時 天皇から「虎の図」が拝領されている。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命により現在地に移転する。
この頃であろうか 秀吉は当寺に来た際に後柏原天皇から頂いた「虎の図」を目にして気に入ると それを借りて聚楽第に持ち帰って飾ってみたところ 「虎の図」は一晩中うるさく吠えて秀吉は眠ることができず すぐに当寺に「虎の図」を返却したという。
それ以来 この「虎の図」は「鳴虎」と呼ばれるようになり 当寺の通称ともなった。
元和9年(1623年)8月4日 福岡藩主黒田長政は京都における黒田家の位牌寺である当寺に宿泊していたところ 客殿にて56歳で亡くなった。
徳川家光の将軍宣下の先遣として病を押して先に上洛していたところであった。
享保15年(1730年)に享保の大火(西陣焼け) 次いで天明8年(1788年)1月30日の天明の大火で全焼したが その後再建されている。
江戸時代 寺にほど近い織屋に 仲が悪い丁稚と織女がいた。
ある時 報恩寺の夕方の鐘が何度撞かれるかで口論になった。
織女の方が正しかったが 丁稚が寺で雑用をしている男に頼んで 丁稚が答えた数だけ撞いてもらった。
丁稚に負けた織女は悔しさのあまり 鐘楼に首をつってしまった。
それ以来 寺では朝夕の鐘を撞くのを辞め 鐘は「撞かずの鐘」と呼ばれるようになった。

由緒書

庫裡

昔の仁王門におられた金剛力士像だと思います

ずいぶん古いです

庫裡には情報がたくさん貼ってあります

玄関

後西天皇皇女 賀陽宮墓

庫裡前の庭

奥に見えるのが本堂

本堂

賓頭盧尊者

重要文化財の鐘楼 撞かずの鐘として知られています

悲しい言い伝えがあるそうです

説明

除夜の鐘で撞けるそうです
すてき
投稿者のプロフィール

くるくるきよせん3133投稿
「すてき」 をくださるみなさま、ありがとうございます。 拙い投稿ですのに、本当に感謝しかありません。 2022年の正月に、ふと思い立って古都の寺社巡りを始めました。 由緒書きを読んだり、お話を伺...もっと読む
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