いっしきいなりじんじゃ
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宮津駅近く、道の駅方面へ向かうところでお見かけ。「一色義清公自刃之處」と書かれた碑があり、その地に稲荷社が祀られている。一色家は足利幕府の四職のひとつである名家であるにもかかわらず最後の当主・義清は資料がほぼないとのこと。前当主の義定(義俊)が細川忠興(藤孝の説も)に謀殺されたため家督を継ぐがその年のうちに細川家との戦いで討死もしくは自刃したとされています😥社殿のある一帯は元々一色義清の墓所があったそうですが、細川家の後に丹後に入った京極家が宮津城大改修により三の丸が建てられたようです。京極家は一色家と同じく足利幕府四職だったので鎮魂・慰霊だけではなく一色家の存在を後世に残すために建立したのかもしれませんね🤔

鳥居

由緒

本殿

地蔵堂

制札があったんでしょうね…

一色義清自刃之處碑

何が書いてあったか分からず😅
境内・文化財
境内・文化財をもっと見る|歴史
一色義清自刃之處碑。
一色義清(?~1582)は丹後一色氏最後の当主。丹後守護・一色義幸の子。父隠居後、兄義道が丹後守護となりますが、天正7年、義道は織田信長家臣・細川藤孝に攻め滅ぼされます。義道の遺児で甥の一色義定は弓木城に入り抵抗するも、藤孝の長女伊也を娶って和睦、織田信長から北丹後を与えられ家臣となります。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、藤孝は家督を嫡子忠興に譲り隠居。同年、忠興は妹婿の義定を宮津城へ呼び出し殺害。義定死後、義清が家督を継いで弓木城で抵抗。忠興の軍に囲まれ、最期は義清自ら敵陣に討ち入って討死(もしくは自刃)したと伝わります。義清の死をもって丹後一色氏は滅亡しました。義清が死んだ場所ははっきりしないものの、この地に碑が建てられています。
歴史をもっと見る|| 名称 | 一色稲荷神社 |
|---|---|
| 読み方 | いっしきいなりじんじゃ |
| 通称 | 義清靈神社 |
| 参拝にかかる時間 | 3分 |
| 参拝料 | なし |
| トイレ | なし |
詳細情報
| ご祭神 | 稲荷大明神 |
|---|---|
| ご由緒 | 一色義清自刃之處碑。 一色義清(?~1582)は丹後一色氏最後の当主。丹後守護・一色義幸の子。父隠居後、兄義道が丹後守護となりますが、天正7年、義道は織田信長家臣・細川藤孝に攻め滅ぼされます。義道の遺児で甥の一色義定は弓木城に入り抵抗するも、藤孝の長女伊也を娶って和睦、織田信長から北丹後を与えられ家臣となります。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、藤孝は家督を嫡子忠興に譲り隠居。同年、忠興は妹婿の義定を宮津城へ呼び出し殺害。義定死後、義清が家督を継いで弓木城で抵抗。忠興の軍に囲まれ、最期は義清自ら敵陣に討ち入って討死(もしくは自刃)したと伝わります。義清の死をもって丹後一色氏は滅亡しました。義清が死んだ場所ははっきりしないものの、この地に碑が建てられています。 |
| 体験 | 武将・サムライ |
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