ひこうじんじゃ
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飛行神社ではいただけません
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飛行神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2020年05月25日(月)
参拝:2020年5月吉日
【異色の神社に日本精神の極限を見た】
古代ギリシャ神殿を模した拝殿を擁し、ジェット機エンジンを展示する異色の神社です。
しかし、実はこの神社は、日本の精神の可能性が極限まで顕現した神社といえるのではないかと思いました。私はこの神社に参拝して、あらためて日本の精神に感動しました。
もし、外国人に、日本そして日本人の精神についてプレゼンテーションすることになったとき、一つだけ神社を引き合いに出すことが出来るのであれば、私はこの神社を選ぶかもしれません。
京都府八幡市に鎮座するここ飛行神社は、主祭神として饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀り、また薬祖神、そして航空殉難者の霊・航空業功績者を祀る神社です。
本社は、日本で最初に飛行原理を発見・研究した二宮忠八によって大正4年(1915年)に創建されました。
彼がどのような生涯を送り、どのような思いでこの神社を創建したかを知ることで、日本の精神を知ることが出来ると思います。
以下、しばらく二宮忠八の生涯についてお話しします。
[少年期]
慶応2年(1866年)、愛媛県八幡浜市の商人の家に生まれた忠八は、12歳のときに父を亡くし、貧しい家庭を助けるために薬屋などで働き始めました。そのかたわら、彼は物理学や化学に強い興味を抱き、専門書を読み耽り、ときには測量師の手伝いもしていました。そこで得た知見をもとに、彼は自ら凧を考案して作り売ることを始めました。彼の作る独創的で奇抜な凧は評判を呼び、「忠八凧」と呼ばれたそうです。
[青年期]
明治20年(1887年)、忠八は薬屋で働いていた経験を見込まれ、丸亀の歩兵隊付の看護卒として入隊します。
明治22年(1889年)、演習の休憩中、彼が昼食をとっていると、残飯を求めて飛ぶ鳥たちが谷を横切りました。彼はその時、羽をはばたかせずに滑空しているカラスの姿に興味を抱き、観察を始めます。このカラスの観察が彼の飛行原理の発見の足掛かりとなったのです。
研究を重ね、忠八は明治24年(1891年)、ゴム動力を使った「カラス型飛行器」を作成し飛行に成功。
また、次は明治26年(1893年)に、人が乗ることのできる「玉虫型飛行器」を考案します。しかし制作実験に入ろうとする矢先、日清戦争が勃発。軍用機として自身の考案した飛行器が役に立つであろうと考えた忠八は、設計図を上申書に添え軍に研究開発を願い出ましたが、取り合ってもらえませんでした。
軍の援助が得られなった忠八は、自力で飛行器開発の資金を調達するため、大阪製薬株式会社に入社します。上質な薬を開発した彼の業績は目覚ましく、最終的に支社長にまで昇進しています。
[壮年期]
明治33年(1900年)、やっと資金的な目処が立ったため、飛行器開発のための土地を求めていた忠八は、生まれ故郷である八幡浜市と似た名前であることから京都の八幡に惹かれ、そこに工作所を建て移り住み、飛行器の開発に着手しました。
しかしその矢先、明治36年アメリカのライト兄弟が飛行に成功したという情報が彼の元に届きます。世界初の有人動力飛行という快挙を逃した忠八は大いに嘆き、彼は飛行器の開発を断念することにしたのです。
もし明治26年、日本軍が忠八の飛行器開発を援助していたら、ライト兄弟ではなく彼が「世界で初めて飛行機を作った人」になっていたかもしれないのです。
ようやく大正の時代になってから、忠八の研究は軍部より評価されるようになり、彼は多くの表彰や叙勲を受けることになったのです。
[老年期]
飛行機の時代が到来すると、航空産業の発展のかたわら、世界中で飛行機事故による犠牲者が多く見られるようになりました。それを知った忠八は、同じ大空を志した人間としてこれを見逃すことは出来ないと、その霊を慰めるために私財を投じて大正4年(1915年)に飛行神社を創建し、自身が神職となり、航空安全と航空事業の安全を祈願するようになったのです。
以上をふまえた上で、冒頭に述べた通り、私はこの飛行神社が、日本そして日本人の精神の可能性が極限まで顕現した神社であると考えています。その精神は次のようなものです。
[①自己中心的な考えから離れた他者への思いやり、優しさ]
飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じてこの神社を創建しました。
彼はもともと飛行機開発のために精勤し財産を蓄えていたのでしたが、上記の通り、不運にもその使途を絶たれることとなりました。しかし、彼は、その当初の目的には資することのできなくなった私財を、利己的な目的には使わず、飛行機事故犠牲者の慰霊、しかも日本のみならず世界中の飛行機事故犠牲者の慰霊のために使ったのです。
この忠八の行動に、自己中心的な考えから離れた他者への思いやり、優しさという、日本の精神を感じます。
[②死者への敬意、感謝]
飛行機事故犠牲者は、飛行機、そして航空業界の発展に殉じた英霊であり、彼らの犠牲無しに、飛行機の恩恵に与る今の私たちの便利で豊かな暮らしは実現し得なかったのです。忠八は犠牲者の霊を神として祀ることで、彼らへの敬意と感謝を表したのです。この忠八の行動に、死者への敬意、感謝という、日本の精神を感じます。
[③寛容性・多元性]
世界の航空産業の発展を願い、また航空事故犠牲者の慰霊を主眼とすることから、世界各国の人にお参りしてもらえるために、神社であるにもかかわらず、本社の拝殿は洋風の建築を擁しています。一方で、本殿は、伝統的な神社の建築様式である流造なのです。また、天磐船(あまのいわふね)に乗り天下りしたという神話に重ね合わせることで、主祭神である饒速日命は、現代文明の利器である飛行機の神様として祀られます。この東西・新旧を折衷をし、付会する本社の姿勢に、寛容性・多元性という日本の精神を感じます。
殉難者そして先覚者への感謝の気持ちを込めて、
また航空業界の復興への願いを込めてお詣りしてきました。二拍手をすると、涙がこぼれました。
古代ギリシャ神殿を模した拝殿を擁し、ジェット機エンジンを展示する異色の神社です。
しかし、実はこの神社は、日本の精神の可能性が極限まで顕現した神社といえるのではないかと思いました。私はこの神社に参拝して、あらためて日本の精神に感動しました。
もし、外国人に、日本そして日本人の精神についてプレゼンテーションすることになったとき、一つだけ神社を引き合いに出すことが出来るのであれば、私はこの神社を選ぶかもしれません。
京都府八幡市に鎮座するここ飛行神社は、主祭神として饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀り、また薬祖神、そして航空殉難者の霊・航空業功績者を祀る神社です。
本社は、日本で最初に飛行原理を発見・研究した二宮忠八によって大正4年(1915年)に創建されました。
彼がどのような生涯を送り、どのような思いでこの神社を創建したかを知ることで、日本の精神を知ることが出来ると思います。
以下、しばらく二宮忠八の生涯についてお話しします。
[少年期]
慶応2年(1866年)、愛媛県八幡浜市の商人の家に生まれた忠八は、12歳のときに父を亡くし、貧しい家庭を助けるために薬屋などで働き始めました。そのかたわら、彼は物理学や化学に強い興味を抱き、専門書を読み耽り、ときには測量師の手伝いもしていました。そこで得た知見をもとに、彼は自ら凧を考案して作り売ることを始めました。彼の作る独創的で奇抜な凧は評判を呼び、「忠八凧」と呼ばれたそうです。
[青年期]
明治20年(1887年)、忠八は薬屋で働いていた経験を見込まれ、丸亀の歩兵隊付の看護卒として入隊します。
明治22年(1889年)、演習の休憩中、彼が昼食をとっていると、残飯を求めて飛ぶ鳥たちが谷を横切りました。彼はその時、羽をはばたかせずに滑空しているカラスの姿に興味を抱き、観察を始めます。このカラスの観察が彼の飛行原理の発見の足掛かりとなったのです。
研究を重ね、忠八は明治24年(1891年)、ゴム動力を使った「カラス型飛行器」を作成し飛行に成功。
また、次は明治26年(1893年)に、人が乗ることのできる「玉虫型飛行器」を考案します。しかし制作実験に入ろうとする矢先、日清戦争が勃発。軍用機として自身の考案した飛行器が役に立つであろうと考えた忠八は、設計図を上申書に添え軍に研究開発を願い出ましたが、取り合ってもらえませんでした。
軍の援助が得られなった忠八は、自力で飛行器開発の資金を調達するため、大阪製薬株式会社に入社します。上質な薬を開発した彼の業績は目覚ましく、最終的に支社長にまで昇進しています。
[壮年期]
明治33年(1900年)、やっと資金的な目処が立ったため、飛行器開発のための土地を求めていた忠八は、生まれ故郷である八幡浜市と似た名前であることから京都の八幡に惹かれ、そこに工作所を建て移り住み、飛行器の開発に着手しました。
しかしその矢先、明治36年アメリカのライト兄弟が飛行に成功したという情報が彼の元に届きます。世界初の有人動力飛行という快挙を逃した忠八は大いに嘆き、彼は飛行器の開発を断念することにしたのです。
もし明治26年、日本軍が忠八の飛行器開発を援助していたら、ライト兄弟ではなく彼が「世界で初めて飛行機を作った人」になっていたかもしれないのです。
ようやく大正の時代になってから、忠八の研究は軍部より評価されるようになり、彼は多くの表彰や叙勲を受けることになったのです。
[老年期]
飛行機の時代が到来すると、航空産業の発展のかたわら、世界中で飛行機事故による犠牲者が多く見られるようになりました。それを知った忠八は、同じ大空を志した人間としてこれを見逃すことは出来ないと、その霊を慰めるために私財を投じて大正4年(1915年)に飛行神社を創建し、自身が神職となり、航空安全と航空事業の安全を祈願するようになったのです。
以上をふまえた上で、冒頭に述べた通り、私はこの飛行神社が、日本そして日本人の精神の可能性が極限まで顕現した神社であると考えています。その精神は次のようなものです。
[①自己中心的な考えから離れた他者への思いやり、優しさ]
飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じてこの神社を創建しました。
彼はもともと飛行機開発のために精勤し財産を蓄えていたのでしたが、上記の通り、不運にもその使途を絶たれることとなりました。しかし、彼は、その当初の目的には資することのできなくなった私財を、利己的な目的には使わず、飛行機事故犠牲者の慰霊、しかも日本のみならず世界中の飛行機事故犠牲者の慰霊のために使ったのです。
この忠八の行動に、自己中心的な考えから離れた他者への思いやり、優しさという、日本の精神を感じます。
[②死者への敬意、感謝]
飛行機事故犠牲者は、飛行機、そして航空業界の発展に殉じた英霊であり、彼らの犠牲無しに、飛行機の恩恵に与る今の私たちの便利で豊かな暮らしは実現し得なかったのです。忠八は犠牲者の霊を神として祀ることで、彼らへの敬意と感謝を表したのです。この忠八の行動に、死者への敬意、感謝という、日本の精神を感じます。
[③寛容性・多元性]
世界の航空産業の発展を願い、また航空事故犠牲者の慰霊を主眼とすることから、世界各国の人にお参りしてもらえるために、神社であるにもかかわらず、本社の拝殿は洋風の建築を擁しています。一方で、本殿は、伝統的な神社の建築様式である流造なのです。また、天磐船(あまのいわふね)に乗り天下りしたという神話に重ね合わせることで、主祭神である饒速日命は、現代文明の利器である飛行機の神様として祀られます。この東西・新旧を折衷をし、付会する本社の姿勢に、寛容性・多元性という日本の精神を感じます。
殉難者そして先覚者への感謝の気持ちを込めて、
また航空業界の復興への願いを込めてお詣りしてきました。二拍手をすると、涙がこぼれました。
すてき
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