またふりじんじゃ
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末多武利神社ではいただけません
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末多武利神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年03月31日(水)
参拝:2021年3月吉日
末多武利神社(またふり~)は、京都府宇治市にある神社。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文の怨霊を鎮魂する社と言われている。
藤原忠文は平安中期の940年に参議の地位に着き、征夷大将軍として関東で勃発した平将門の乱の平定に向かったが、到着前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれ事件は解決。この時大納言の藤原実頼によって恩賞の対象から外され、忠文はこれを不満として辞任を申し出たが許されなかった。翌941年に征西大将軍として瀬戸内海で勃発した藤原純友の乱の追討に向かったが、大蔵春実らの活躍で到着前に解決し、またも忠文に戦功の機会はなかった。このことで忠文は実頼を深く恨み、死後も一族に取り憑いて祟ったとのこと。
当社は、宇治橋東詰から南に400m向かって左折し、坂道をちょっと上がった住宅街の中にある。歴史のエピソードはあるが、一般住宅の脇にある小さな社。ちなみに鎮座地の地名は宇治市宇治又振(またふり)。当社の社名が由来か。
参拝時は週末の午後、宇治神社から宇治上神社に向かう途中、間違えて遠回りしたおかげで当社を発見。宇治市の史跡紹介があったので参拝してみた。
藤原忠文は平安中期の940年に参議の地位に着き、征夷大将軍として関東で勃発した平将門の乱の平定に向かったが、到着前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれ事件は解決。この時大納言の藤原実頼によって恩賞の対象から外され、忠文はこれを不満として辞任を申し出たが許されなかった。翌941年に征西大将軍として瀬戸内海で勃発した藤原純友の乱の追討に向かったが、大蔵春実らの活躍で到着前に解決し、またも忠文に戦功の機会はなかった。このことで忠文は実頼を深く恨み、死後も一族に取り憑いて祟ったとのこと。
当社は、宇治橋東詰から南に400m向かって左折し、坂道をちょっと上がった住宅街の中にある。歴史のエピソードはあるが、一般住宅の脇にある小さな社。ちなみに鎮座地の地名は宇治市宇治又振(またふり)。当社の社名が由来か。
参拝時は週末の午後、宇治神社から宇治上神社に向かう途中、間違えて遠回りしたおかげで当社を発見。宇治市の史跡紹介があったので参拝してみた。
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