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みょうりゅうじ|日蓮宗叡昌山

妙隆寺のお参りの記録一覧
神奈川県 鎌倉駅

らんでぃー
らんでぃー
2024年06月16日(日)
374投稿

GW前半は、鎌倉で御朱印散歩。 宝戒寺を後に小町大路をやや南下し続いて妙隆寺へ。 至得2年(1385年)日英(にちえい)上人が開山、開基は鎌倉幕府の御家人であった千葉胤貞(ちばたねさだ)とされ、日蓮宗に帰依する胤貞は、祖先の冥福を祈るため自身の別邸である千葉氏屋敷地内に日英を迎え当寺を創建したといいます。 永享12年(1440年)、二世の日親(にっしん)上人は足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、宗祖・日蓮(にちれん)上人の教えにならって『立正治国論』を著して室町幕府六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)に献上し直訴を試みます。 しかしその際に幕府の治政に諫言を呈し、義教の逆鱗に触れてしまった為投獄され、舌先を切り取られ、あまつさえ熱く熱せられた鉄鍋を頭に被せられるといった酷い拷問を受けたとのことです。 伝承ではこの被せられた鍋は終生日親の頭から取れることがなかったとされ、後世「鍋かむり日親」との異名が付いて伝説化されます。 「鍋かむり…」と聞いて最初はなんておちゃめなネーミング、と思ったのですが謂れを聞くと実はかなり凄惨なエピソードを持った人物でした。 御朱印はその日親上人のものを戴きました。

妙隆寺(神奈川県)

妙隆寺・山門

妙隆寺(神奈川県)

妙隆寺・寿老人の石像

妙隆寺(神奈川県)

妙隆寺・本堂

妙隆寺(神奈川県)

妙隆寺・寿老人の堂

妙隆寺(神奈川県)

御朱印・日親大上人

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ぷかぞう
ぷかぞう
2024年01月04日(木)
496投稿

鎌倉七福神2023④ 妙隆寺

宝戒寺から徒歩10分くらいです。
個人的には、2021年に初めて七福神巡りをしたとき、こちらのお寺さんだけコロナで寺務所が閉まっていて御朱印を頂けず、後日改めて訪問した思い出があります。

やっぱり3月よりも緑が多いです。

妙隆寺(神奈川県)

到着!

妙隆寺(神奈川県)

3月はこんなに緑ではなかったです

妙隆寺の建物その他

こちらに寿老人様がいらっしゃいます。ガラス張りなので中は見えると思うのですが、天気が良いと反射してよく見えません😱

妙隆寺(神奈川県)

ここには池があります。ここに浸かって修行したとか。昔の人はすごいです。

妙隆寺(神奈川県)

寿老人の御朱印は左下です

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mitch
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2022年03月22日(火)
2201投稿

22.03.21 鎌倉「妙隆寺」参拝 _ 鎌倉市小町

妙隆寺の建物その他

01-1) 日蓮宗 「叡昌山妙隆寺」  _ 鎌倉市小町
山門を潜ってからの、本堂方向。
参道には桜の木が多いけど、そのうちの蕾が開花を待つ一本を撮った。
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妙隆寺の自然

01-2) 開花を待つ蕾をズームアップ
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妙隆寺の像

02) 石像と本堂
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妙隆寺の歴史

03-1) ’ 鎌倉・江の島 七福神 ’ の ” 寿老人像 ” 安置堂 と 解説ボード

<書き起こし>鎌倉・江の島 七福神 壽老人 妙隆寺
当山は、源頼朝の御家人・千葉常胤(つねたね)の子孫
千葉大隅守平胤貞<千葉胤貞>の旧地で、******
七堂伽藍を建立し妙親院日英上人を迎えて
開山しました。応永三十四年(一四二七年)の冬第二祖
久遠成院日親上人は甘一才の時に当山に来られ
堂前の池で寒百日間、水行などの修行を積み
永享十一年(一四三九年)京都へ上り「立正治国論」の
一書を足利六代将軍義教に献じて政道を
諫めようとしましたが、これを怒った義教は
日親を投獄し、陰惨な拷問でも屈しない日親の
頭に灼熱の鍋をかぶせ舌端を切らせ日親の
言葉を 奪ってしまいました。後年『なべかむり日親』と
呼ばれるように成りました。世の為、人の為ならば
いかなる苦難にも屈しない日親上人ゆかりの
妙隆寺には、欅の一本造りの寿老人の尊像が
置されて います。人々の安全と健康を守り
を司る福神です。
お供の鹿はその使いで、三千年の長寿を
象徴しているのです。
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妙隆寺(神奈川県)

4-1) 観光客さまが通ることは稀有であろう、本堂に向かって右側面沿いの通路。
向かって右方墓地の ’ 丸山定夫の碑 ” 
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妙隆寺の御朱印

04-2) ” 丸山定夫の碑 ” 解説ボード
<書き起こし>丸山定夫の碑
丸山定夫は、明治三十四年五月三十一日、
愛媛県 松山市北徒歩町に、海南新聞社編集長、丸山常次の 四男としてうまれた。
そして早くから演劇の魅力に 憑かれ、大正十三年六月三日、
築地小劇場が東京築地に 開設されるや、その開幕のドラを叩いた。
つづいて昭和三年まで同劇場にはたらき、昭和四年
新築地劇団の創立に加わって、十五年まで舞台に立ち、
独異の性格俳優として「新劇の団十郎」とまで言われ
新劇史上不朽の名をとどめた。人間としても、よく読み、 よく歌い、
よく飲み、よく悲し、友を愛し、人の世話を見、
純情で敏感で柔軟な心情を以て知る人すべてから 愛された。
が、昭和二十年八月六日、広島市堀川町九九番地、
移動演劇桜隊の宿舎でアメリカ軍投下の原爆に遭い、
十日間の苦悶の末、十六日、厳島存光寺の庫裡で
誰れにも看取られずに四十三年のいのちを閉じた。
その後、埋められた場所きへ知られずにいたのを、
最近この地に朽ちかけた墓標が発見され、友人知人たちの
協力で新しく記念碑が建てられた。知友代表として
その由来を記す。
      一九六六年十月
                    藤森成吉
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妙隆寺(神奈川県)

05-1) ” 丸山定夫の碑 ” 直近の、寒緋桜。
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妙隆寺の建物その他

05-2) ” 丸山定夫の碑 ” 直近、
観光客さまに観られることはないであろう寒緋桜をズームアップ。
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(8枚/全12枚
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22.03.21C #鎌倉 「 #妙隆寺 」参拝 _ #鎌倉市小町
https://mitch1.blog.ss-blog.jp/2022-03-22-3#more

/ #鎌倉江の島 七福神 #2022桜 #桜 #寒緋桜 #鎌倉殿の13人

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