じょうちじ
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楽しみ方浄智寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年01月14日(水) 11時54分42秒
参拝:2024年12月吉日
神奈川県 鎌倉市 山ノ内に境内を構える、金宝山 浄智寺(じょうちじ) 禅宗の寺院、臨済宗の寺院の寺格 鎌倉五山 第四位 寺院、当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼してます、2024に 東国花の寺、鎌倉三十三ヶ所、鎌倉江の島七福神にて何度か参拝致しました、山間にひっそりと佇む古刹寺院は山門から見応えが在り季節により景観の美しさが変わります、寺院対応も窓口が在り手慣れていて親切丁寧な対応でした、境内見学は拝観料 掛りますがこれだけの寺院 境内を維持するには致し方無いと思います、日本遺産でも在り、歴史を見れると思えば拝観して損はしません、拝観料/入館料は大人(高校生以上):300円、小人(中学生以下):100円
障害者:無料(要障害者手帳)、付添1名無料、市内高齢者:150円(要福寿手帳/写真添付)団体割引(30名以上)大人(高校生以上):150円
どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 金宝山、寺号は 浄智寺、宗旨 宗派は 臨済宗 円覚寺派、寺格は 鎌倉五山 第四位 (建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺) ご本尊は三世仏 (過去・現在・未来の三つの時代に対応する仏) 阿弥陀如来 (過去)・釈迦如来 (現在)・弥勒如来 (未来)、東国花の寺 百ヶ寺 鎌倉 第九番札所 桜、鎌倉三十三ヶ所観音霊場 第三十一番札所、(聖観世音菩薩)鎌倉十三仏霊場 第六番札所(弥勒菩薩)鎌倉地蔵尊霊場 第十二番札所、鎌倉 江の島七福神(布袋尊)
鎌倉幕府 第5代執権・北条時頼の 3男である北条宗政の菩提を弔うために、弘安4年(1281年)に創建された。開基は宗政の子・北条師時としたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・北条時宗による創建で、開山は日本人僧の 南州宏海が招かれるが、宏海は尊敬する 宋出身の高僧 兀庵普寧(ごったん ふねい)と導師の大休正念(だいきゅう しょうねん)はを開山にして自身は準開山になる。なお兀庵普寧は文永2年(1265年)に中国に帰国し、浄智寺開山の7年前に没している。
その後、高峰顕日(こうほう けんにち)や夢窓疎石(むそう そせき)らの名僧が住持し、最盛期には 七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達した。元亨3年(1323年)の 北条貞時13年忌には 浄智寺からの参加僧衆は224人に達したと記録にあり、当時浄智寺の総人員は僧侶以外も加えると500人ほどに及んだとみられる。発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われる。
鎌倉幕府滅亡後も寺勢は衰えず、延文元年(1356年)には火災で創建時の伽藍を失うが、室町時代には諸堂が建ち並び、塔頭も11院を擁す大きな寺院で、上杉禅秀の乱のあとの応永24年(1417年)に足利持氏が鎌倉に戻ったとき、まず浄智寺に入り2か月以上滞在した。また持氏の子・永寿王(後の足利成氏)が宝徳元年(1449年)に鎌倉に入ったときも浄智寺に滞在したなども寺の規模の大きさを示している。
しかし、15世紀半ばころから都市鎌倉そのものの衰亡と足並みをそろえて徐々に荒廃し、なお江戸時代末まで塔頭8院を維持したが、大正12年(1923年)の関東大震災でその大部分が倒壊し、今日の伽藍は概ね昭和になってから復興された、東慶寺の東、建長寺の西南の谷戸(やと。鎌倉に多い山あいの狭小平地のこと)に位置し、参道は砂岩の一種である鎌倉石で舗装されている。重層一間一戸の鐘楼門は、上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式のもので、花頭窓をあしらった中国風の意匠が特徴である(近年、この門は全面的に改築されてまったく新しくなった)この門をくぐったところに、本尊の三世仏を安置する曇華殿(仏殿)がある。境内は樹木が豊かで竹林もあり、起伏に富み絶壁状の部分には、鎌倉周辺地域でみられる「やぐら」とよばれる横穴がいくつも掘られ、石仏や石塔が安置されている。鎌倉江ノ島七福神の一である布袋像、観音像を祀るやぐら(洞窟)もある。本堂の裏の墓地には、澁澤龍彦の墓がある。澁澤龍彦の本名は龍雄であるが、墓には龍彦と刻まれている。
境内入り口にある湧き水は鎌倉十井のひとつ「甘露の井」で、寺の裏山からは源氏山に抜けられる。
寺域は全山が1966年(昭和41年)2月28日、国の史跡に指定されている。山門 - 扁額の「寶所在近」(ほうしょざいきん)は、円覚寺開山の無学祖元の筆とされる
障害者:無料(要障害者手帳)、付添1名無料、市内高齢者:150円(要福寿手帳/写真添付)団体割引(30名以上)大人(高校生以上):150円
どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 金宝山、寺号は 浄智寺、宗旨 宗派は 臨済宗 円覚寺派、寺格は 鎌倉五山 第四位 (建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺) ご本尊は三世仏 (過去・現在・未来の三つの時代に対応する仏) 阿弥陀如来 (過去)・釈迦如来 (現在)・弥勒如来 (未来)、東国花の寺 百ヶ寺 鎌倉 第九番札所 桜、鎌倉三十三ヶ所観音霊場 第三十一番札所、(聖観世音菩薩)鎌倉十三仏霊場 第六番札所(弥勒菩薩)鎌倉地蔵尊霊場 第十二番札所、鎌倉 江の島七福神(布袋尊)
鎌倉幕府 第5代執権・北条時頼の 3男である北条宗政の菩提を弔うために、弘安4年(1281年)に創建された。開基は宗政の子・北条師時としたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・北条時宗による創建で、開山は日本人僧の 南州宏海が招かれるが、宏海は尊敬する 宋出身の高僧 兀庵普寧(ごったん ふねい)と導師の大休正念(だいきゅう しょうねん)はを開山にして自身は準開山になる。なお兀庵普寧は文永2年(1265年)に中国に帰国し、浄智寺開山の7年前に没している。
その後、高峰顕日(こうほう けんにち)や夢窓疎石(むそう そせき)らの名僧が住持し、最盛期には 七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達した。元亨3年(1323年)の 北条貞時13年忌には 浄智寺からの参加僧衆は224人に達したと記録にあり、当時浄智寺の総人員は僧侶以外も加えると500人ほどに及んだとみられる。発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われる。
鎌倉幕府滅亡後も寺勢は衰えず、延文元年(1356年)には火災で創建時の伽藍を失うが、室町時代には諸堂が建ち並び、塔頭も11院を擁す大きな寺院で、上杉禅秀の乱のあとの応永24年(1417年)に足利持氏が鎌倉に戻ったとき、まず浄智寺に入り2か月以上滞在した。また持氏の子・永寿王(後の足利成氏)が宝徳元年(1449年)に鎌倉に入ったときも浄智寺に滞在したなども寺の規模の大きさを示している。
しかし、15世紀半ばころから都市鎌倉そのものの衰亡と足並みをそろえて徐々に荒廃し、なお江戸時代末まで塔頭8院を維持したが、大正12年(1923年)の関東大震災でその大部分が倒壊し、今日の伽藍は概ね昭和になってから復興された、東慶寺の東、建長寺の西南の谷戸(やと。鎌倉に多い山あいの狭小平地のこと)に位置し、参道は砂岩の一種である鎌倉石で舗装されている。重層一間一戸の鐘楼門は、上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式のもので、花頭窓をあしらった中国風の意匠が特徴である(近年、この門は全面的に改築されてまったく新しくなった)この門をくぐったところに、本尊の三世仏を安置する曇華殿(仏殿)がある。境内は樹木が豊かで竹林もあり、起伏に富み絶壁状の部分には、鎌倉周辺地域でみられる「やぐら」とよばれる横穴がいくつも掘られ、石仏や石塔が安置されている。鎌倉江ノ島七福神の一である布袋像、観音像を祀るやぐら(洞窟)もある。本堂の裏の墓地には、澁澤龍彦の墓がある。澁澤龍彦の本名は龍雄であるが、墓には龍彦と刻まれている。
境内入り口にある湧き水は鎌倉十井のひとつ「甘露の井」で、寺の裏山からは源氏山に抜けられる。
寺域は全山が1966年(昭和41年)2月28日、国の史跡に指定されている。山門 - 扁額の「寶所在近」(ほうしょざいきん)は、円覚寺開山の無学祖元の筆とされる
すてき
投稿者のプロフィール

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宮城県 石巻市に在住、元々出張で日本各地を訪れる機会が在り思い出作りに道の駅スタンプラリーにも参加、気がつけば全国制覇者2022年第184号、今は休日 旅行で全国各地の食べ物、景色、温泉を探索、...もっと読む
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