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だいしいなりじんじゃ

大師稲荷神社の御由緒・歴史
神奈川県 東門前駅

ご祭神《主》大歳神,大宜都姫神,屋船豊請姫神
ご由緒

当神社は崇徳天皇の時代、当地の豪族平間兼乗が、往古洲の海中より、十一面観音像を拾い上げ、祀ったのが始まりと伝えられる。平間兼乗は平安時代の末、無実の罪で流刑となり、この川崎の地にて漁猟をして暮らしを立てていましたが、源義家(平安後期の武将頼義の長子通称八幡太郎が前九年の役に父に従って奮戦、後に陸奥守となり、後三年の役を鎮定。東国の源氏の基礎を固めた)の旧臣となり、この地に勢力を持ったが、神仏に対しての信仰が厚く、人望もあり、同じような言い伝えのある川崎大師平間寺の創建にも携わっており、当神社も、川崎大師平間寺の創建と同時期の大治三年(1128年)前後の創建と思われる。
 永禄二年(1559年)小田原北条氏の領地となり、朱印地三石を寄附され、元禄十年(1697年)頃までは、殿町・江川町・田町・日の出町あたりまでを稲荷新田村と呼ばれ、特に新田開発に際して、霊験あらたかな御利益があるとの信仰が高まり、大師地区新田の総鎮守として繁栄した。
 江戸時代半ばより、大師平間寺の別当神社となり、境内は松が生い茂り、本殿は堀に囲まれ、荘厳なたたずまいを見せるなど隆盛を誇り、特に江戸時代から、明治にかけての祭礼には流鏑馬や多数の小屋がけなどもかかり、近在の参拝者で大変なにぎわいを見せたと伝えられている。
 御祭神は大歳神の神像(十一面観音立像)弘法大師作とも伝えられたが、明治四年の神仏分離に大師平間寺に遷され、同寺の宝物となっていたが戦火で焼失したと伝えられている。しかし、現在も奥殿に木彫りの十一面観音像が安置され、境内の地蔵堂には、子育て地蔵像、首なし地蔵像、弘法大師像、不動明王像が祭られている。
 神社名は以前、稲荷神社や大師祠などと称されていたが川崎大師平間寺とのこの様な関係から、大師稲荷神社と称され、明治六年村社となる。
 また神仏分離の際、現在の福島県古殿町で下総国小見川藩の飛領地代官松浦官兵衛が明治維新時の際に亡くなり、一子員彦(かずひこ)が叔父である川崎大師平間寺三十八世・総本山四十四世貫首隆基(佐伯・赤津)に預けられていた。明治四年、僧籍者が神職を拝命できないため、僧籍でなく、士族で平間家を一時継いでいた中村員彦が川崎大師平間寺より、分家し初代宮司に任ぜられた。
 本殿・拝殿には人物や動物、花鳥などの多種多様な彫刻があり、平間寺本堂再建時に活躍した彫刻師後藤富五郎の孫、富八氏が明治初頭に制作したものと伝えられている。お手水舎は元文五年(1740年)、稲荷新田村、川中之島村、大師河原村の奉納と明記されており、再建前の鳥居は明和五年(1768年)灯籠は嘉永五年(1852年)の奉納とある。
 明治九年(1876年)現在の本殿が建造されたが、拝殿と鳥居は大正十二年九月一日(1923年)の関東大震災で半崩壊し、昭和十六年十二月十五日(1941年)に社殿がすべて再建され、遷宮祭を執行された。
 昭和九年に現在の大神輿が奉納され、平成六年鳥居・敷石・社名碑が再建され、平成十七年本殿(奥殿)屋根葺き替え並びの改修工事完成、平成十八年から平成十九年にかけて、拝殿大屋根の修復、並びに全面的修復工事と灰汁抜き工事等を行い、平成十九年五月十三日社殿修復奉告祭が執行、平成二十五年十月に祓所並びに社務所が新築された。
 平成二十六年、崇敬者より、中国唐時代に制作されたと言われる、十一面宝瓶観音坐像(白玉石製・高百十五センチ・重参百キロ以上)の奉納を請け、拝殿、右に観音堂を設置し、平成二十七年元旦より、安置され公開された。

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