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とうしょうじ|高野山真言宗青龍山

東昌寺の御由緒・歴史
神奈川県 神武寺駅

開山・開基承久3年(1221)
ご由緒

< 東昌寺さま公式Webサイトから引用 _ http://tosyoji.sakura.ne.jp >
.
東昌寺は、鎌倉時代に北条泰時により執権家歴代の菩提寺として
鎌倉の西ケ谷(鎌倉市小町)に建立された
東勝寺に由来すると伝えられています。
東昌寺は、当時、青龍山東勝寺と呼ばれていました。
一方、後に東昌寺の境内に移されることになった
丈六阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂が、
承久2年(1221年)に
池子の大上阿弥陀ヶ谷(おおがみあみだがや: 現在の県立逗子高校の奥)
に建立されました。
この阿弥陀堂は、源実朝の非業の死を弔うために
母親の政子刀自(とじ: 年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語)が、
仏師・運慶に依頼して丈六阿弥陀如来像を彫らせ祀ったと伝えられています。
元弘3年(1333)5月22日、新田義貞の率いる大軍が、
稲村ヶ崎から鎌倉に攻めこみました。
北条勢は、必死に防衛しましたがその甲斐もなく、
新田軍が若宮大路まで迫ってきました。
その事を知った北条高時は、
一族郎党とともに先祖代々の墓地のある東勝寺に立てこもり、
そこを最期の場所に選び、寺に火をかけて自害して最後を迎えました。
この戦いは、東勝寺合戦として知られています。
自害した人々は、北条一族283人と家臣870人であると太平記に記されています。

この戦火の中を当時の東勝寺の住職・信海和上は、
ただ一人で本尊の大日如来像
(平家亡霊の成仏祈願のため、頼朝が全真僧都に命じて造流したと伝えられる)
を守り、
山道伝いに池子に落ちのびて東勝寺を再建したと伝えられています。

江戸時代になって池子は、
寛永14年(1637)に水戸徳川家につながる尼寺の英勝寺の支配下になりました。
この寺の名は、水戸家への遠慮から「勝」の字を「昌」のに改め、
「海照山東勝寺」から「青龍山東昌寺」に変わりました。
また、英勝寺の命により
丈六阿弥陀像を祀った阿弥陀堂が東昌寺境内に移されました。

池子は、逗子市内で、もっとも古くから開けた土地で、
古東海道として
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征の道として使われていました。
また、池子は、水戸徳川家に支配されていたことから、
徳川家の紋所(水戸三つ葵)を
神明社の御輿(みこし)や提灯などに見ることができます。

享保12年(1727年)に火災になり、寺のすべてを消失しました。
当時の住職の寛定、頼雄、海乗の三代にわたり50年をかけて復興事業を行い、
今日の東昌寺ができました。

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