こうそくじ
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楽しみ方光触寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年12月24日(水) 12時54分34秒
参拝:2024年11月吉日
神奈川県 鎌倉市 十二所に境内を構える、光触寺(こうそくじ)正式名称は 岩蔵山 長春院 光触寺、別称は 頬焼阿弥陀、火印堂、当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼してます、2024に 鎌倉三十三ヶ所観音霊場にて参拝致しました、境内は広くは有りませんが綺麗に手の入った境内、周りの山との景観、歴史を感じる寺院でした、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 岩蔵山、院号は 長春院、寺号は 光触寺、宗旨 宗派は 時宗、ご本尊は 阿弥陀如来(頬焼阿弥陀)、鎌倉三十三ヶ所観音霊場 第七番札所 聖観世音菩薩、鎌倉二十四地蔵霊場 第五番札所、鎌倉六阿弥陀霊場 第六番札所、藤沢市 時宗本山 清浄光寺 末寺院で光触寺に伝わる鎌倉時代中後期の絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる素行不良の僧が盗みの容疑をかけられ、頬に「くつわの水つき」によって焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言った。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っており、修復を21度試みてもかなわなかったという。その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したので、由縁により寺院は火印堂(かなやきどう)と呼ばれたと伝えられる。この縁起は、絵図と同じく鎌倉時代中後期に成立した無住道暁の仏教説話集『沙石集 巻第二ノ三』に、細部の異同はありながら「弥陀ノ利益事」として同様の説話が載っている、
岩蔵寺と当寺についての直接の資料は前述の絵巻物を除いて残っておらず明らかでない[8]が、弘安元年(1278年)に現在地へと移ったとされ、その後第3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名。一遍を開基に迎え、寺号の岩蔵を山号とし、光触寺へと改称したという、江戸初期には藤澤山(藤沢山)とも称した、
寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 – 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 – 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には、33代住持の大純により中興されている。現存の本堂が安政6年3月(1859年4月)上棟とする。堂は37代住持広道の任期において1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折に傾斜したが、翌1924年(大正13年)には修復されている
岩蔵寺と当寺についての直接の資料は前述の絵巻物を除いて残っておらず明らかでない[8]が、弘安元年(1278年)に現在地へと移ったとされ、その後第3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名。一遍を開基に迎え、寺号の岩蔵を山号とし、光触寺へと改称したという、江戸初期には藤澤山(藤沢山)とも称した、
寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 – 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 – 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には、33代住持の大純により中興されている。現存の本堂が安政6年3月(1859年4月)上棟とする。堂は37代住持広道の任期において1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折に傾斜したが、翌1924年(大正13年)には修復されている
すてき
投稿者のプロフィール

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宮城県 石巻市に在住、元々出張で日本各地を訪れる機会が在り思い出作りに道の駅スタンプラリーにも参加、気がつけば全国制覇者2022年第184号、今は休日 旅行で全国各地の食べ物、景色、温泉を探索、...もっと読む
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