じょうかんざんごくらくじ|臨済宗円覚寺派|上関山
上関山 極楽寺の御由緒・歴史
ご本尊 | 御本尊「釈迦如来坐像」 1717年、鎌倉の仏師、後藤政義により造立。極楽寺の本尊(寺の中央に安置されるもの)は釈迦如来坐像です。釈迦如来とは仏教の開祖である釈迦を仏として敬う呼び名です。釈迦は古代インドにあった小国の王子で妻と子もいた実在の人物です。 釈迦がまだ太子の頃、王城の東西南北4つの門から郊外に出かけ、それぞれの門外で老人、病人、死者、修行者に出会いました。老い、病、死という人生の苦しみを痛感すると同時に世俗の苦を離れた修行者の姿に感銘を受け、29歳で出家しました。その後6年間に厳しい修行を積み、35歳で悟りを開いたといわれています。釈迦如来坐像はその釈迦が悟りを得た姿を表しています。 | |
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創建時代 | 1344年 | |
開山・開基 | 開山(寺を開創した僧侶)は仏満禅師大喜法祈大和尚。開基(寺の創建に尽力した資主)はその弟、今川範国 | |
ご由緒 | 正式名称は「上関山極楽寺」。鎌倉円覚寺を本山とする臨済宗円覚寺派の禅寺です。1344年開創。開山(寺を開創した僧侶)は仏満禅師大喜法祈大和尚、開基(寺の創建に尽力した資主)はその弟、今川範国です。 はじめ「定慧山極楽寺」という法相宗の寺があったのを仏満禅師が禅寺と改め、百丈禅師(中国唐代の禅僧)の木像を安置し「百丈山極楽寺」と改名しました。その後、足利尊氏による寺院の建立や寄進があり、開山の弟子、極楽寺2世である季高禅師が「上関山極楽寺」と改めました。尊氏により寺格が高められ、関所より上の位を表し「上関山」としたという逸話がありますが書物等の記録には残っていません。 開山、仏満禅師の顔が描かれた書物はありません。極楽寺には開山の木像が現存しています。「平生一笑春風面」と称されたように、開山の木像は満面に笑みをたたえ、温情溢れる顔つきをしています。 その反面、開山は「平生の気宇万夫の雄」として、勇猛な心もちを讃えられました。そこには、足利氏の支流今川基氏の5人兄弟の四男として生まれた、武門今川家の血筋が感じられます。仏満禅師はその後、出家して太平和尚の弟子になり、禅の修行を積み、師の法を継ぎました。その名声は徐々に天下に聞こえ、有名な鎌倉五山の浄智寺(34世)、円覚寺(30世)、建長寺(40世)で住職を務め、また多くの寺を開創しました。極楽寺を含めその数は14寺です。1368年、師匠である太平和尚の祥月命日である9月24日、続燈庵後の絶壁に造っておいた岩窟にこもり、坐禅をして、弟子や後世のために詩を残し、入定(高僧が亡くなること)しました。入定から650年となる2018年秋、円覚寺管長、横田南嶺老大師のもと、開山仏満禅師六百五十年遠忌が厳修されました。 大雄山最乗寺は、1394年、了庵禅師により開山された曹洞宗の禅寺です。最乗寺の建立中、了庵禅師は極楽寺を宿としていました。その縁から、入寺式(住職として寺に入る際の儀式)や開山忌(開山の祥月命日に行う儀式)は、宗派を超え、互いに招請し合う関係を築いています。 了庵禅師は極楽寺に安置されていた百丈禅師の木像が亡き師匠にそっくりであったことに心を打たれ、最乗寺開山後も、朝になると遠い山道を極楽寺まで下り、木像を拝み、また最乗寺に戻っていきました。これを見ていた当時の極楽寺2世季高禅師は「それほどまでに厚く信心されるのなら差し上げましょう」と、この木像を最乗寺に寄進しました。 |
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