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ふかみじんじゃ

深見神社の御由緒・歴史
神奈川県 大和駅

ご祭神闇龗神・武甕槌神・建御名方神
創建時代雄略天皇二十二年(478)
ご由緒

深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約千五百年前、人皇第二十一代雄略天皇二十二年三月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。
深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。
当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総國風土記による)。
年移ること千五百余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。
明治六年十二月、太政官布告によって郷社に列せられたが同八年、隣地仏導寺の出火に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳となった。明治四十二年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和十五年九月三日炎上以来、実に五十五ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇敬者の熱情は逐に昭和十六年十一月十五日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同十七年三月二十五日、改めて郷社に列格した。
平成二十四年三月本殿再建七十年の節目を迎え社号標石建立と共に延喜式神名帳登載の御祭神闇龗神を御倉稲荷神社から本殿へ合祀した。
尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和二十六年四月七日、鎮座祭を執行し摂社とした。

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