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ふかみじんじゃ

深見神社

神奈川県 大和駅

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046-261-2539

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惣一郎
2021年05月17日(月)
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深見神社は、神奈川県大和市にある神社。式内社で、旧社格は郷社。

『総国風土記』によると、創建は雄略天皇22年(478年)で、当社の主祭神は闇龗神(くらおかみ)との記載がある。ただ何らかの経緯で闇龗神は祭神から外れ、境内社・御倉稲荷神社の祭神となっている。社伝では、東国平定の武甕槌神(たけみかづち)が舟師を率いて常陸鹿島より深海(当地;当時は相模湾岸)に進軍し、伊弉諾(いざなぎ)の御子である倉稲魂神(うかのみたま)と闇龗神が当地を治め美田を拓いたとしている。つまり主祭神は武甕槌神とし、事実江戸時代までは「鹿島社」と文献に記述された。平安時代927年の『延喜式神名帳』に記載のある「相模国高座郡 深見神社」に比定される。

古来、地元土民の信仰を受けてきたが、源頼朝、小田原北条氏、武田信玄、太田道灌など武家からも崇敬を受けた。徳川幕府の旗本・坂本重安は大坂の陣の折の武運長久を祈願し田を寄進したが、「鹿島田」として今に残っている。爾後坂本家は当地の領主となり、重安の養子で寺社奉行までなった坂本重治は、当社社殿を造営し、「相模國十三座之内深見神社」と記した社号標を建てている。
明治時代に入り郷社に列したが、1876年の火災により、社殿や古文書がすべて焼失、公称社格も不詳となる。1909年に末社の諏訪神社と合併、祭神の「建御名方神」を当社に同列で合祀(相殿)、66年後の1941年に現在地に社殿等が再建され、郷社に復帰した。2012年に境内社・御倉稲荷神社の祭神であり、延喜式神名帳に搭載される闇龗神を、本殿に合祀した。

当社は、相鉄本線・相模駅、小田急江ノ島線・相模駅、の東方1kmの、相鉄線の線路沿いの住宅街にある。境内は木々に囲まれ本社社殿と摂末社数社の、郷社クラスの広さ。木々を切り落とした広い駐車場を合わせるとけっこう広い。

今回は、相模国の式内社の1つということで参拝することに。参拝時は週末の午前9時ごろで、境内は清掃の真っ最中、他の参拝客はちらほら程度だった。

深見神社の鳥居

境内の西側にある<鳥居>と<社号標>。写真左側は境内、右側は広い駐車場。

深見神社の建物その他

鳥居くぐって進むと左手に境内入口。

深見神社の手水

境内入ってすぐ左手に<手水舎>。

深見神社の建物その他

境内中央には何もない配置で、広々として清々しい。

深見神社の本殿

拝殿正面。社殿は1941年に再建されているが、2012年にも改修されているのか、木材部分の見た目が新しい。美しい彫刻も目を引く。

深見神社の本殿

拝殿の扁額。変わった字体で面白い。

深見神社の本殿

社殿全景。銅板葺屋根と木材の色合いが美しい。

深見神社の本殿

拝殿後方の本殿。綺麗に改修されている。

深見神社の鳥居

社殿左脇に建つ、御神木の<ハルニレ>の巨木。推定樹齢400年、樹高30m、幹回り4m。かつて樹種が分からなかったため「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれ親しまれた。<かながわの名木100選>に選定されている。

深見神社の末社

御神木の左隣にある<靖國社>。別名<厚木空神社>。戦時中の1944年に厚木海軍飛行場敷地内で創祀され、厚木航空隊の戦死者を祀っていたが、戦後当社地に移転した。

深見神社の末社

神社の隣にある<御倉稲荷神社>の鳥居。倉稲魂神(うかのみたま)を祀る。

深見神社の末社

<御倉稲荷神社>の社殿。近年まで、延喜式神名帳に記載されていた<闇龗神(くらおかみ)>も祀られていたが、本殿に合祀された。

深見神社の建物その他

拝殿の右手にある<社務所>。御朱印はこちら。

深見神社の建物その他

社務所の右奥は斜面になっていて、一段低い街が見える。

深見神社の本殿

社務所からの眺め。本社は南向き、境内社は東向きに建っている。

深見神社の末社

境内西側の鳥居、駐車場の近くにぽつんと離れて建っている<富澤稲荷神社>。深見で製糸会社を開設した富澤家所縁の稲荷社とのこと。

深見神社の建物その他

境内北西端の鳥居近くにある、寺社奉行・坂本重治奉納の<社号標>。寛政3年(1791年)の銘。

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歴史

深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約千五百年前、人皇第二十一代雄略天皇二十二年三月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。
深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。
当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総國風土記による)。
年移ること千五百余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。
明治六年十二月、太政官布告によって郷社に列せられたが同八年、隣地仏導寺の出火に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳となった。明治四十二年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和十五年九月三日炎上以来、実に五十五ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇敬者の熱情は逐に昭和十六年十一月十五日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同十七年三月二十五日、改めて郷社に列格した。
平成二十四年三月本殿再建七十年の節目を迎え社号標石建立と共に延喜式神名帳登載の御祭神闇龗神を御倉稲荷神社から本殿へ合祀した。
尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和二十六年四月七日、鎮座祭を執行し摂社とした。

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深見神社の基本情報

住所神奈川県大和市深見3367
行き方
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名称深見神社
読み方ふかみじんじゃ
通称鹿島さま
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号046-261-2539
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://nttbj.itp.ne.jp/0462612539/index.html
絵馬あり

詳細情報

ご祭神武甕槌神・建御名方神・闇龗神
創建時代雄略天皇二十二年(478)
ご由緒

深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約千五百年前、人皇第二十一代雄略天皇二十二年三月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。
深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。
当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総國風土記による)。
年移ること千五百余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。
明治六年十二月、太政官布告によって郷社に列せられたが同八年、隣地仏導寺の出火に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳となった。明治四十二年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和十五年九月三日炎上以来、実に五十五ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇敬者の熱情は逐に昭和十六年十一月十五日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同十七年三月二十五日、改めて郷社に列格した。
平成二十四年三月本殿再建七十年の節目を迎え社号標石建立と共に延喜式神名帳登載の御祭神闇龗神を御倉稲荷神社から本殿へ合祀した。
尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和二十六年四月七日、鎮座祭を執行し摂社とした。

Wikipediaからの引用

概要
深見神社(ふかみじんじゃ)は、神奈川県大和市深見に鎮座する神社。西暦927年(延長5年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされる。また、江戸時代の『新編相模国風土記稿』では「鹿島社」と記されている。
アクセス
交通[編集] 相鉄線および小田急線「大和駅」より東へ徒歩10分〜15分程。
行事
祭事[編集] 以下は祭事における伝統的な固定日付を掲載している。 1月1日 - 歳旦祭 2月3日 - 節分祭 9月15日 - 例大祭 (※現在は敬老の日の前日に行われている[1]) ^ 引用エラー: 無効な タグです。「saiji」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
引用元情報深見神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B7%B1%E8%A6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=91319375

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