しどじ|真言宗善通寺派|補陀洛山(ふだらくさん)
志度寺のお参りの記録一覧
お参りしました🙏ただいま令和の大改修真っ只中🚧
色々工事が終わったらお庭も手入れされてますます素敵になるんだろうな、トトロのお庭みたいで私的にはアリなんだけどね。次回お伺いするのが楽しみです😊
憧れの四国八十八霊場巡り日帰り5回目です。
香川県にシフトチェンジしたため 車の運転が短時間になり楽でした。
87番札所長尾寺に続き 86番札所の志度寺へのお参りです。
長尾寺から志度寺までは 7kmほどで 車だと10分と少しです。
境内の外が駐車場になっていましたので 車でのお参りはしやすいです。
あいにくの雨天でしたが 駐車場は満車で 参拝者は非常に多かったです。
山門をくぐると接待を受けました。暖かいカフェオレをいただきました。
四国八十八霊場巡りでは 度々接待のお世話になります。
地元の方の温かい心に触れ 心がほっこりします。
境内には建物が多く 見て回るのが楽しいです。
本堂も大師堂も素晴らしいのですが 奪衣婆堂や五重塔や焔魔堂も素敵です。
書院なのか 関係者以外立ち入り禁止と言われそうな建物に入ると 無染庭と言われる庭を見ることができます。
細川勝元によって完成された枯山水庭園です。
少し笑ったのが 中庭にあるドアです。
ドラえもんの「どこでもドア」のように立っています。
山号は補陀洛山 院号は清浄光院 宗旨宗派は古義真言宗善通寺派 ご本尊は十一面観音菩薩 創建年は(伝)推古天皇33年(626年) 開基は(伝)尼凡薗子です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ
でした。
由緒については
本寺の縁起によると 志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し その霊木から本尊・十一面観音を造立し 小さな堂を建て祀ったという。
626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。
681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。
また 693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し 寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。
この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。
その後 巡錫に来た 弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行うことで繁栄し 室町後期になると敷地内および近隣に多くの僧坊や支院末寺を塔頭として抱えた。
のちの戦乱により寺院は荒廃するも 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて藤原氏末裔の生駒親正による支援などを得る事となり 慶長の頃には改めて「華厳坊」「常楽坊」「西林坊」「常林坊」「林蔵坊」「空圓坊」などの僧坊を復興させるに至る。
1671年(寛文10年) 高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など 高松藩主松平氏により再興。
これに伴い復興させた僧坊も様々な要因により改めて再編され複数の塔頭寺院(後述)として独立するに至る。
とありました。
石柱右
石柱左
由緒など
山門には巨大わらじが
山門の扁額
山門をくぐると
手水舎
讃岐遍路道についての説明
境内には低木が多く その中に石仏などが散在しています
書院の門かと思うのですが
文化財の看板があり
おそらく書院だと思うのです
関係者の入口のような気もするのですが 入りました
無染庭
本堂
内陣は網があって見えにくい
大師堂
内陣
閻魔堂
焔魔堂の説明
三尊仏
三社
薬師堂かな 工事中
納骨堂かな
鐘楼 工事中
どこでもドア
奪衣婆堂
内陣
説明
五重塔
納経所
駐車場には 授与品の自動販売機がありました
四国八十八ケ所霊場 第86番札所
山号:補陀落山
宗派:真言宗善通寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
625年(推古33年)に開創された四国霊場屈指の古刹です。
奪衣婆と懸衣翁
奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)。人が亡くなったあと、最初に出会う冥界の官吏です。
"三途の川"で奪衣婆は、なんと亡くなった人の服を剥ぎ取ります。そして、それを懸衣翁に渡します。懸衣翁は、その服を"衣領樹"に掛け、生前の罪の量を計るのだとか。😯
その"奪衣婆"のお堂がありました。暗くてはっきりとは見えないのですが、幾分ニヤリと笑っておられたような気が・・・。😵💫
まぁ、今回70番札所の本山寺さんで"六文銭"購入しましたので、いざという時には心配ないのですが
🤭
仁王門
運慶作といわれる仁王像と巨大なわらじが収められています。
ご本堂
五重塔
いただいた御朱印です。
近くに平賀源内さんゆかりのお寺さんがありました。
【補陀洛山(ふだらくざん)清浄光院(せいじょうこういん)志度寺(しどじ)】
本尊:十一面観世音菩薩
宗派:真言宗善通寺派
開基:藤原不比等
志度寺の歴史は古く、飛鳥時代625(推古天皇33)年、凡薗子(おおしそのこ)という尼僧が十一面観音像を彫り、小さな御堂を建てたのがはじまりとされている。その後、681(天武天皇10)年、藤原鎌足の息子、藤原不比等(ふひと)が妻の墓を建立し「死度(しど)道場」と名づけたという。その息子 房前(ふささき)の時代、693(持統天皇7)年、行基とともに堂宇を拡張し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。
【86_仁王門と五重塔】
【86_無染庭】
龍神から海女が玉を取り返したとされる「玉取り伝説」をモチーフにした枯山水の庭園「無染庭」。七つの石を配し、苔むした岩、庭一面に敷き詰めた白砂で、伝説を表現している。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【86_無染庭(むぜんてい)】
昭和期の作庭家 重森三玲(しげもりみれい)によって造られた枯山水の庭園。
【86_本堂】
【86_大師堂】
【86_仁王門】
運慶作の仁王像を納めている。
【86_仁王阿形像】
【86_仁王吽形像】
【86_閻魔堂】
厳しい表情の十一面閻魔大王が鎮座している。
【86_五重塔と鐘楼】
【86_書院入口】
【86_曲水式庭園】
室町時代の守護大名 細川勝元が寄進した庭園が書院の南側に残る。
札所86番 志度寺。
古刹というものでしょうか。海の近くにあるお寺で、五重塔と境内のいたるところにある小さな石仏が特徴的でした。
閻魔堂に安置されている閻魔像は絢爛豪華で見ごたえがありました。
本堂
大師堂
三尊像
海女の墓
藤原不比等公と恋仲になった海女が、不比等公が竜神に奪われた宝玉を命懸けで取り返し、その冥福を祈って千基の碑が建てられました。
「志度」は「死度」
もともとお寺は死を意識するための場所でもあると思いますが
こちらは開創者藤原不比等の妻(🐉龍神から🔮宝珠を取り返し亡くなった)の墓や、閻魔像(ご本尊の十一面観音と同体とされる十一面の仏面を頂くお姿で、極楽往生・蘇生の閻魔とされている)があることから、より一層この世とあの世を感じる参拝となりました
御朱印の順番を待っていると、前の方とご住職?の会話が聞こえてきました
「毎日拝見していると、日によって閻魔様の表情が違って見えますね〜」
この世もあの世も自分の意識無意識の投影で、如何様にもなるのだとかならないのだとか…🙏せっかくなら極楽🦚がいいですね
国指定重要文化財の仁王門
運慶作の仁王様がいらっしゃいます
夕刻に映える美しい朱塗りの五重塔
植物の繁茂に無常を感じました
皆生まれて育っては死んでいくのですね
弘法大師御生誕1250年仕様
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