しどじ
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志度寺ではいただけません
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志度寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年03月08日(金)
参拝:2024年2月吉日
憧れの四国八十八霊場巡り日帰り5回目です。
香川県にシフトチェンジしたため 車の運転が短時間になり楽でした。
87番札所長尾寺に続き 86番札所の志度寺へのお参りです。
長尾寺から志度寺までは 7kmほどで 車だと10分と少しです。
境内の外が駐車場になっていましたので 車でのお参りはしやすいです。
あいにくの雨天でしたが 駐車場は満車で 参拝者は非常に多かったです。
山門をくぐると接待を受けました。暖かいカフェオレをいただきました。
四国八十八霊場巡りでは 度々接待のお世話になります。
地元の方の温かい心に触れ 心がほっこりします。
境内には建物が多く 見て回るのが楽しいです。
本堂も大師堂も素晴らしいのですが 奪衣婆堂や五重塔や焔魔堂も素敵です。
書院なのか 関係者以外立ち入り禁止と言われそうな建物に入ると 無染庭と言われる庭を見ることができます。
細川勝元によって完成された枯山水庭園です。
少し笑ったのが 中庭にあるドアです。
ドラえもんの「どこでもドア」のように立っています。
山号は補陀洛山 院号は清浄光院 宗旨宗派は古義真言宗善通寺派 ご本尊は十一面観音菩薩 創建年は(伝)推古天皇33年(626年) 開基は(伝)尼凡薗子です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ
でした。
由緒については
本寺の縁起によると 志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し その霊木から本尊・十一面観音を造立し 小さな堂を建て祀ったという。
626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。
681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。
また 693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し 寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。
この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。
その後 巡錫に来た 弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行うことで繁栄し 室町後期になると敷地内および近隣に多くの僧坊や支院末寺を塔頭として抱えた。
のちの戦乱により寺院は荒廃するも 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて藤原氏末裔の生駒親正による支援などを得る事となり 慶長の頃には改めて「華厳坊」「常楽坊」「西林坊」「常林坊」「林蔵坊」「空圓坊」などの僧坊を復興させるに至る。
1671年(寛文10年) 高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など 高松藩主松平氏により再興。
これに伴い復興させた僧坊も様々な要因により改めて再編され複数の塔頭寺院(後述)として独立するに至る。
とありました。
香川県にシフトチェンジしたため 車の運転が短時間になり楽でした。
87番札所長尾寺に続き 86番札所の志度寺へのお参りです。
長尾寺から志度寺までは 7kmほどで 車だと10分と少しです。
境内の外が駐車場になっていましたので 車でのお参りはしやすいです。
あいにくの雨天でしたが 駐車場は満車で 参拝者は非常に多かったです。
山門をくぐると接待を受けました。暖かいカフェオレをいただきました。
四国八十八霊場巡りでは 度々接待のお世話になります。
地元の方の温かい心に触れ 心がほっこりします。
境内には建物が多く 見て回るのが楽しいです。
本堂も大師堂も素晴らしいのですが 奪衣婆堂や五重塔や焔魔堂も素敵です。
書院なのか 関係者以外立ち入り禁止と言われそうな建物に入ると 無染庭と言われる庭を見ることができます。
細川勝元によって完成された枯山水庭園です。
少し笑ったのが 中庭にあるドアです。
ドラえもんの「どこでもドア」のように立っています。
山号は補陀洛山 院号は清浄光院 宗旨宗派は古義真言宗善通寺派 ご本尊は十一面観音菩薩 創建年は(伝)推古天皇33年(626年) 開基は(伝)尼凡薗子です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ
でした。
由緒については
本寺の縁起によると 志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し その霊木から本尊・十一面観音を造立し 小さな堂を建て祀ったという。
626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。
681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。
また 693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し 寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。
この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。
その後 巡錫に来た 弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行うことで繁栄し 室町後期になると敷地内および近隣に多くの僧坊や支院末寺を塔頭として抱えた。
のちの戦乱により寺院は荒廃するも 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて藤原氏末裔の生駒親正による支援などを得る事となり 慶長の頃には改めて「華厳坊」「常楽坊」「西林坊」「常林坊」「林蔵坊」「空圓坊」などの僧坊を復興させるに至る。
1671年(寛文10年) 高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など 高松藩主松平氏により再興。
これに伴い復興させた僧坊も様々な要因により改めて再編され複数の塔頭寺院(後述)として独立するに至る。
とありました。
石柱右
石柱左
由緒など
山門には巨大わらじが
山門の扁額
山門をくぐると
手水舎
讃岐遍路道についての説明
境内には低木が多く その中に石仏などが散在しています
書院の門かと思うのですが
文化財の看板があり
おそらく書院だと思うのです
関係者の入口のような気もするのですが 入りました
無染庭
本堂
内陣は網があって見えにくい
大師堂
内陣
閻魔堂
焔魔堂の説明
三尊仏
三社
薬師堂かな 工事中
納骨堂かな
鐘楼 工事中
どこでもドア
奪衣婆堂
内陣
説明
五重塔
納経所
駐車場には 授与品の自動販売機がありました
すてき
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くるくるきよせん2060投稿
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