しどじ|真言宗善通寺派|補陀洛山(ふだらくさん)
志度寺香川県 琴電志度駅
7:00~17:00
御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ||
駐車場 | 納経所の前(無料) |
「春日大社社外教養研修会」-⑤
最後にお伺いする
志度寺は藤原性繋がりでの参詣。
副住職さんと係の方が案内して下さった。
藤原鎌足の孫、房前の母親が夫・不比等が龍に横取りされた玉を取り返す「海女の玉取伝説」がある。
因この話には続きがあって海女に取り返された玉を追って龍が猿沢池に棲んだとい言う説もあると花山院宮司さんが仰ってた。
「花山院」と言うの苗字は藤原道長の孫から始まったそうです。
本堂
重森三玲の海部の玉取り伝説を題材にした庭
憧れの四国八十八霊場巡り日帰り5回目です。
香川県にシフトチェンジしたため 車の運転が短時間になり楽でした。
87番札所長尾寺に続き 86番札所の志度寺へのお参りです。
長尾寺から志度寺までは 7kmほどで 車だと10分と少しです。
境内の外が駐車場になっていましたので 車でのお参りはしやすいです。
あいにくの雨天でしたが 駐車場は満車で 参拝者は非常に多かったです。
山門をくぐると接待を受けました。暖かいカフェオレをいただきました。
四国八十八霊場巡りでは 度々接待のお世話になります。
地元の方の温かい心に触れ 心がほっこりします。
境内には建物が多く 見て回るのが楽しいです。
本堂も大師堂も素晴らしいのですが 奪衣婆堂や五重塔や焔魔堂も素敵です。
書院なのか 関係者以外立ち入り禁止と言われそうな建物に入ると 無染庭と言われる庭を見ることができます。
細川勝元によって完成された枯山水庭園です。
少し笑ったのが 中庭にあるドアです。
ドラえもんの「どこでもドア」のように立っています。
山号は補陀洛山 院号は清浄光院 宗旨宗派は古義真言宗善通寺派 ご本尊は十一面観音菩薩 創建年は(伝)推古天皇33年(626年) 開基は(伝)尼凡薗子です。
ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ
でした。
由緒については
本寺の縁起によると 志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し その霊木から本尊・十一面観音を造立し 小さな堂を建て祀ったという。
626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。
681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。
また 693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し 寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。
この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。
その後 巡錫に来た 弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行うことで繁栄し 室町後期になると敷地内および近隣に多くの僧坊や支院末寺を塔頭として抱えた。
のちの戦乱により寺院は荒廃するも 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて藤原氏末裔の生駒親正による支援などを得る事となり 慶長の頃には改めて「華厳坊」「常楽坊」「西林坊」「常林坊」「林蔵坊」「空圓坊」などの僧坊を復興させるに至る。
1671年(寛文10年) 高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など 高松藩主松平氏により再興。
これに伴い復興させた僧坊も様々な要因により改めて再編され複数の塔頭寺院(後述)として独立するに至る。
とありました。
石柱右
石柱左
由緒など
山門には巨大わらじが
山門の扁額
山門をくぐると
手水舎
讃岐遍路道についての説明
境内には低木が多く その中に石仏などが散在しています
書院の門かと思うのですが
文化財の看板があり
おそらく書院だと思うのです
関係者の入口のような気もするのですが 入りました
無染庭
本堂
内陣は網があって見えにくい
大師堂
内陣
閻魔堂
焔魔堂の説明
三尊仏
三社
薬師堂かな 工事中
納骨堂かな
鐘楼 工事中
どこでもドア
奪衣婆堂
内陣
説明
五重塔
納経所
駐車場には 授与品の自動販売機がありました
四国お遍路第86番札所、補陀洛山志度寺。推古天皇の時代、凡薗子が薬師堂を建立。その後観音の化身が霊木で本尊十一面観世音菩薩を彫り堂宇を建てたのが始まりとされる。藤原不比等が妻だった海女の墓を立て死渡道場と名付けた。
仁王門。
わりと荒れ果ててる?
本堂。
大師堂。
植え替え中だったみたい。
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「死度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。
室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館があります。
住所 | 香川県さぬき市志度町志度1102 |
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行き方 | 志度駅より(0.7km)
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名称 | 志度寺 |
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読み方 | しどじ |
参拝時間 | 7:00~17:00 |
トイレ | 駐車場の海側に公衆トイレ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 087-894-1991 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
四国八十八ヶ所霊場(お遍路) |
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ご本尊 | 十一面観世音菩薩 |
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山号 | 補陀洛山(ふだらくさん) |
宗旨・宗派 | 真言宗善通寺派 |
創建時代 | 推古33年(625) |
開山・開基 | 藤原不比等 |
文化財 | 本堂、仁王門、木造十一面観音立像および両脇侍(不動明王立像・毘沙門天)立像、絹本著色十一面観音像、絹本著色志度寺縁起 6幅(重要文化財)
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ご由緒 | 香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「死度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。
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体験 | 御朱印重要文化財札所・七福神巡り |
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